家から一歩も出られなくなった
- 2020.02.21
- 腹膜中皮腫の病歴
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そう家から一歩も出られなくなる
がん拠点病院へ診察をお願いする運びとなって程なく、私は家から一歩の出ることができなくなってしまった。
リビングにあるパソコンに泣きながら向かい、ひたすら「中皮腫 腹膜中皮腫 余命 予後」等のワード検索をし続けた。情報が少なすぎて、論文まで読んでみた。
2012年当時、ブログを開設している中皮腫の方はさほど多くなく、開設していても更新されていない、もしくはご家族が代筆し幕を閉じているものが多かった。
自意識を持ち続けなければ
大声で叫び出しそうな衝動が絶えず襲い、気が狂いそうだった。
気をしっかり持っているつもりでも勝手に涙が流れてくる。
もう、自分が悲しいのか、生きたいのか、わからなかった。
とにかく朝起きたら無かった事になってないかなぁ、こんなバチが当たる程悪い事した人生だったかなぁ
希少がんってどーゆこと?まだ子どもは小学生…、母がまだ必要な年齢。仕事はどうしよう、辞めたほうがいいの?これから私どうなっていくの?
一歩外に出ると、とにかく、道ゆく人が眩しすぎて、
みんな寿命なんて気にして生きてないよね
そう思うと、すれ違うすべての人に引目と羨望、
歩いている人が全て健康にみえて、若い人をみれば未来を感じ、御老人をみればこの年まで生きてこれたんだ、と。
とにかく人という人全てが目に入るのが辛い。
自分の寿命はいつなのだろうか、痛みに苦しむ最期になるんだろうか、がんの痛みで思わぬことを口走るのだろうか…来年の桜見られるのかな…
食べ物を体に入れることが恐怖に
栄養をとると体内のがん細胞も成長するんじゃないか、そんな恐怖で食べ物を口にするのが怖くなり、ミネラルウォータしか口にできなくなった。
夫が心配し食事療法の本を購入、ケトン式の食事を私に用意してくれた。それだけは安心して食べられた。
今でこそ、消化可能な元気な内臓があるうちにお酒も食事も楽しんでおくぞ!と思えるようになったが、あの時は本当に「食べること」が怖くてお腹もすかなかった。
一つ強烈に覚えているのは、夫がリビングで私用の食事を作っている時、急に私の悲しいスイッチが入り、寝室で一人声を殺して泣いていた。それに気がついた夫が寝室にやってきて、子どもをあやすように「一人にしてごめん」と言った事。
漠然とこれじゃまずいな自分、と思った(メンタルね)。
けれど相変わらず日差しは眩しく、季節は4月、春爛漫、世間は未来に向けて浮き足立ち、世界が開けているようで、
まったくもって外出不可能に
もう、このまま一生眠りたかった。何もなかったことにしたかった。
毎日泣いて、
希望のない検索を繰り返し、
毎日毎日泣きはらしたパンパンの両眼で家族と接して閉じこもっている私に、一体何の価値があるのだろう。
子どものママ友たちは健康そうで羨ましくて。
気の毒に、かわいそうに、と思われたくなくて。
病気である事を知られるのが怖くなり、とにかく隠し通したい、知り合いに会いたくない、家族以外誰とも話したくない。そうやってリビングに篭城していた。
でも季節は春、新学期
どうしても接触は避けられない。
病気の予後、自分の気持ち、父母への申し訳なさ、家族への想いが、スムージーのように一体となって、もう自分の気持ちがさっぱりわからなく、疲れ果てて、泣き疲れて、それでも検索して…
ドラマや映画のようにスマートに受け入れるなんて全然できなくて。
治療に正解はなく、もがいて頑張ったとしても報われない未来があることを、ズッシリ「知ってしまった」から、全然飲み込めなくて、辛い逃げたい消えてしまいたい、とそればっかで。
朝が来るのは、1日が繋がるから嬉しいけれど、
逃げたい自分との答えの出ない会話がまた始まるのが辛かった。
どう過ごそうと、1日は同じく1日。
明けない夜はない、良くも悪くもその通り、疲れたな。
明けない夜はない
苦痛と苦悩の数年をその後過ごすが、
今の私は毒親から解放された。
悪性腹膜中皮腫である事に変わりはないが、
10年前の病気以前の私より、ずっと自由だ。
そう、明けない夜はない。先人の残した言葉は真実だ。
by 中皮腫患者 mochi
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