おかしいなあと思った診察の順番

おかしいなあと思った診察の順番

そう、前回書いたが2012年4月12日 14時頃 診察予約表に記された日時。

なかなか呼ばれない診察の順番

産婦人科の待合室は、たくさんの母子や女性でいっぱいだった。

16時になっても呼ばれず、一度看護師さんに確認に行くと「うん、予約はちゃんと入っているから安心してね。まっててね」というので、今日は混んでるのかと思い椅子に戻る。

でも後から入ってくる人が先に呼ばれるし…、17時になった時点では、もう私を含めて3人しかいなかった。

不安が募り一度母に電話をかけた。

「何かね、予約は間違ってないらしいんだけど、後からきた人がどんどん先に呼ばれて、私まだなんだよ。おかしくない?なんか不安なんだけど。」と気持ちを吐露した。

母は、

「あら、そうなの?でも呼ばれないんじゃ仕方ないから待っててみたら。こっちは大丈夫よー」と言った。

母は「がんの可能性の大きな腫瘍」の存在を知っていた。執刀医から直接聞いていたらしいので、本当は最大に嫌な予感がしてただろう…母よ…

とうとう最後の一人になった待合室

17時半ばを過ぎ、すっかり陽も傾き照明のついた待合室で一人になった。そこでもまだ10分ほど待たされた。

どうやら看護師さんたちも「私が最後の一人」であり、この状態の「理由」を知っているようで、時々話かけてくれては消えていく。いよいよ本当に私ですら「嫌な予感」マックスである。

母に「まだ呼ばれない」とメールを送るが「そうなの、子どもたちの事は安心して」とそっけない返事。

普段の母なら「えっ、おかしくない?」と話にのってくれるのに…

違和感が不安を助長するけど、やっぱり母にメールをしてしまう。糠に釘のようなやりとりを数回したけど、不安に押しつぶされそうで怖かった。

やっと名前を呼ばれた

I先生の診察室に入った瞬間、「あれ?ご家族は?お母様きてる?」

私「???いえ、私一人です」

I先生「そうか、お母様来ると思っていたけど一人ならば仕方がない…」

私「はぁ…(不安)」

じゃあまず

卵巣嚢腫ね。これはもう問題ない、良性だったし、きれいにとりきれたし、傷口も綺麗。これはもうこのまま時間が経てば傷も目立たなくなるよ。

でね、本題はここからなんだよ。だからご家族も一緒にとお母様に伝えたんだけれど…、まず先に言っておくね。

いざ本題のがん告知へ

ん???本題?????

いいかな、あなたの腹腔内に無数の米粒大の腫瘤、いわゆる腫瘍だね、これが手術中にみつかった。

病理で検査した結果「悪性腹膜中皮腫」と診断されたんだよ。中皮腫って聞き慣れないかもしれないけれど、悪性と名がつく通り、悪性の腫瘍、つまりがんなんだ。それがあなたのお腹に散らばってる状態なの。

アスベストって知ってるかな?それが原因と言われている「がん」なんだけれど、

ここを出る前にひとつ、約束して欲しいんだ。

病名でネット検索をしすぎないでほしい

あなたの世代でネット検索するな、なんて不可能だから先に言うけれど、

中皮腫で検索すると、ほぼ胸膜中皮腫の情報、少ないけれど次に腹膜中皮腫が出てくる。でもネットに出ている情報は「予後が悪い」「治療方法がない」「抗がん剤の種類がない」「エビデンスが少ない」等がずらりと並んでいるんだよ。

と、先生が目の前でGoogle検索して、画面を見せてくれる。

でもね、あなたの場合は自覚症状のない状況でたまたま見つかったケースだから、ネットの情報に惑わされないでほしいんだ。約束してくれるかな。

私、頭がおいつかず無言になる

アスベストが害を及ぼす、病気になる、知識としては知ってる。

でも中皮腫なんて名前初めて聞いたし、大体予後の悪いがんって何?しかも私自身の話???

勝手に涙がすーと川のようにとめどなく流れて、I先生と二人、少し沈黙になる。

ごめんね、ご家族も一緒だと思っていたから、聞きたいこともあるだろうと思って、診察の順番を最後にしたんだけれど、かえって申し訳ないことをしたね。

でも気持ちを切り替えよう

見つかってよかったと気持ちを切り替えるように、考えてみようよ。

病理診断は大学で中皮腫を研究していた人だから間違いはないと思う、その方向(中皮腫)で、できるだけ早く手術ができるかどうか、これをまず数カ所のがん拠点含む病院で診察してもらおう。

え?診察ってそんなに何箇所も出してよいものなんですか?

もちろんだよ、患者が主体で動かなければ。だから僕がまずお勧めする2病院は紹介状を早く用意するから、早く返事のきた方からまず受診する。

あと、細胞のプレパラート5個作ってあるから、最大5箇所までは持たせられるよ。まずは帰る前にPETの予約をしていって、その結果と術中の腹腔の写真と映像もあるから、それをセットで持っていくといい。

僕で協力できることは惜しまないから

不安なことや聞きたいことがあったら、すぐには返事できないかもしれなけれど、看護師に伝えてくれたら時間とるから、まずはがん拠点病院での判断を仰ごう。いいかい、とにかく待っててはダメ、自分から動いて、ネットの情報に惑わされず、手術する方向でまずは考えて。

本当に思い返しても感謝の気持ちしかない。

告知を一人で受け止めた結果となったが、I先生で本当によかった。

非常灯しかつかない病院の廊下を

ひとり、PETの予約をしに別館へ向かう。

もちろん絶えず流れる川の如し涙と一緒に…

I先生が連絡しておいてくれたので、PETの予約もスムーズに、受付の人も涙に触れないでくれた。

何もかもが実感がなさ過ぎて…

涙が流れるけれど、それも意識しているわけでなく、感情が表に湧いてこなく、ただ淡々と流れ出る涙をボトボト落としながら会計し病院を出た時、19時をまわっていた。

大雨の中、とりあず、涙をどうすることも出来ないからバスに乗れないなぁと思いながら傘を開き、とりあえず家の方向に歩き始めた。夜桜が綺麗だなあ、わたしがんだったのかぁ。

やはり母に先に電話

こーゆーときに、共依存している者としては夫じゃなく母に、一番にかけちゃうんだよなぁ。

私「お母さん、わたしがんだって。お母さんもくると思ってたらしいよ。」

母「え?あれってがんだったの?」

私「うん。しかも珍しいがんなんだって」

母「私の老後がなくなったのね」

1人で告知をうけ、川のような涙が止まらず、バスにも乗れず、雨に打たれ、とぼとぼ歩いている娘への第一声が「私の老後がなくなったのね」であった。

(がん=娘の死=描いていた娘ありきの老後が無くなった=母の当てが外れた)←という本音が真っ先に口に出た母。

さすが私の母、今なら遠くを眺めなつつ、毒母らしいと微笑むことができるまで解毒できているが…

あの時、母には頼れないんだなと瞬間悟ったのを覚えている。

母の勧めでタクシーで帰ることに。

母はタクシー代出してあげるから直ぐに実家にいらっしゃい、孫(子どもたち)が待っているわよ(嗚咽)、と。

しかし感情がどうにも混乱していて、まずは実家ではなく自分の家に帰りたいと思った。

ここでやっと夫に電話

がんと告知されたことを誰にも聞かれたくなくて、涙をダラダラ流しながら無言でタクシーを降りた。

そこでやっと夫に電話をかけ、がん告知を受けた話をした。

驚きつつも、「うん、うん」と話を聞いてくれている夫。勤めて冷静を装っていたに違いないと今ならわかるんだけど、あの時は私の感情が一気に爆発し「そんな呑気な返事しないで。私いなくなっちゃうかもしれないんだよ!」と、

ここにきて初めて、ガチ泣きができた。

私の感情がちゃんと爆発できガス抜きができた。夫は急いで帰るから、と慌てて電話を切った。

荒ぶる感情をどうすることもできず、ようやく自宅に着き、見慣れた部屋を見たらホッとしたんだろう、思いっきり大声で泣きに泣いた。

この時から眠れない日々がはじまる

そう、分岐は 4月12日 20時ごろ。

自分がしっかりしないとダメ…誰にも頼れない…すごく独りぼっちな気持ちになったのを覚えている。

その夜、実家へ行き父母とどんな話をしたのか、その日夫とどんな話をしたのか、子どもにどんな顔で会話したのかしなかったのか…、何も記憶が残っていない。

ただただ、泣いて、孤独で、恐怖で、子どものことが心配で、それでもってやっぱり孤独で怖かった。

告知の話はこれで終わりです。長くてすみません。

by 毒親育ち&中皮腫患者 mochi