毒母が動いたのは、お正月。

母はせっかちで待てない性分である

またこの家系図を使ってみたいと思います(笑)。あ、あと年表も場合によっては更新が必要になるかもしれない…(mochi絶縁年表作ってみました)
毒家族と一切の接触を絶ってからそろそろ5年になる。(私から毒親を捨てた日・絶縁から半年後、毒母の手紙がポストにインしてた)
強気のようでいて本当は臆病な毒母
絶縁を伝え私から連絡は一切せず一年が経った頃、堪えきれず私ではなく「夫の会社」に電話かけてきた毒親。この電話がきっかけで夫が「複雑性PTSD」である私の診断書のコピーとともに、実家に話をしに行った。(毒親との決別は、苦渋の決断だ)
その後母は泣きながら、松一長女に電話を掛けたらしい。その電話の内容はもちろん私は知らないが、その後から松一長女と食事に出かけたり、実家に呼んだりと、「私の代わり」を埋めるような急接近の仲の良さである。
松一長女は私と3歳違い、代わりとして申し分がないだろう。彼女もまた「毒持ち」だしね。(絶縁宣言したよね?毒母のお花畑過ぎる思考)
あ、二人で旅行に出かけるらしい。
2022年1月2日、毒親は松一家へ
毒母の実兄(松一)は8年ほど前に他界しており、実兄松一の嫁である松妻は、義姉だ。
松妻が毒親と会うのは、毒父の傘寿の祝いで私が絶縁を告げた数日後以来である。
毒母の期待していた、松妻一家と毒家族(父母兄)と私たち家族みんなで父の祝いをする予定が「私のせいで」流れたため、毒家族で遊びに行ったのが最後らしい。
松一長女に「寂しいから遊びに行きたい」と伝え、松一長女が了承し実現した、毒母の好きな「家族皆でワイワイ」過ごすお正月。
私が絶縁を宣言したのは2017年3月
(↓の年表に流れをまとめております)

2022年1月7日現在まで、毒母及び毒父より「私の気持ち」を聞きたい等の話し合いを持ちかけられた事は一度もない。
毒兄による暴力及び性的虐待の件についても同様だ。
私は傘寿の件、母に懇願をした。
「祝いたくないわけじゃない、兄と同席は無理だら、別の日に私たち家族とお祝いしよう?」と。
だが母はその時答えを出さず、次に電話を掛けてきた時「兄が帰ってきてるの、お父さんのお祝いなんだけど、土日のどっちがいい?あなた達の都合の良い方でいいわよ」と、
つまり、兄と同席させる大前提で私に電話を掛けてきたのだ。(私から毒親を捨てた日)
父も母も兄も、私の血が噴き出す傷をさらにえぐる「必死な訴え」など…、なかったかのように、楽しく松一家で過ごしたそうだ。ある意味鋼のメンタル…
自身の家庭を見直す事をせず
毒母と毒父は、ふぐを手土産に松一家でお正月の宴席を満喫したそう。滞在時間約9時間。
メンバーは、松妻・松一長女・松一次女夫婦・毒父毒母。
誰一人「mochiのmoの字」も口しなかったらしい(笑)。
私生きてる???大丈夫?ってくらいに誰の口にしなかったらしい。
松一次女と私は毒に苦しんで育った側である。どこから知ったのか松一次女と私が連絡を取り合っていることを、松一長女も毒母も知っているのだ。
車で行った松一次女
毒親を駅までの送迎、松一の墓参りと、3回車内で一緒だったという。
彼女の予想では「mochiのこと聞いてくる勇気は無いだろう」だったのだが、
でも心のどこかで「せめてmochiの体調(悪性腹膜中皮腫)だけでも聞いてほしい」親なんだから、という期待を持っていたと言った。
そう私はがん患者でもあるのだ
悪性腹膜中皮腫という希少がん患者、体内に取りきれなかった悪性腫瘍を抱えたまま「奇跡的に」今も生きれているのである。(悪性腹膜中皮腫という爆弾)
しかし絶縁後一度も私が元気かどうかを両親から尋ねられた人はいない。
だからこそ松一次女は「恥を忍んで」ではないが、せっかくのチャンスなのだから聞いて欲しかったと私に言った。
松一次女のご主人は、毒親と会うのは片手しかないのだが、宴席で気持ち良さげに「人生とは」という「自分語り」を延々続ける毒父に尋ねたそうだ。
「そういえばお嬢さんのお名前なんでしたっけ」と。
毒父も毒母も、聞こえなかったかのようにそのセリフを無視したそうだ。
加害者である毒兄がFaceTime参加
毒兄は、毒親や松一長女と月一くらいで連絡を取り合っているそうで、楽しそうだから参加したいとFaceTimeで参加したそうだ。
松一次女夫婦の印象は「mochiという人は存在しない」かのように、まるで禁忌事項のように「存在が綺麗になかった事」になっている事にヤバさを感じたと言う。
私は毒親らしいと思った
私はがん患者であるから、先のことを考え、長生きするであろう毒兄との関係性を「選択」したのだろう。毒兄の「罪」とちゃんと向き合わず、虐待などなくあれはmochiのついた嘘だったのだ、と。臭いものに蓋をして…
そしてもし私が毒親より先に死んだら親戚にこう言い訳するのだろう。
あの子の好きなように生きさせあげたの
とね。
絶縁をしていたわけじゃなく、「希少がん」である娘(私)の事を考えて「娘が家族と一緒に過ごす時間」を最優先に、自由に、悔いのないよう「時間を無駄にしないよう」親戚事には呼んでなかったのよ、と。
健気に陰ながら支えた可哀想な母親を演じるのだろう。松一長女は「毒仲間」なので、この嘘に「積極的に協力」するだろう。
現在も彼女は松妻に「mochiちゃん色々してもらってきたのに、おばちゃん(毒母)が本当可哀想だよ」と毒母の味方をしているそうだから。
後回しにしても何も変わらない
別に毒家族や親戚が私のことをどう言っても構わないのだが、私の死後に夫と二人のお子が「毒親に責められる」事からは絶対に守りたい。(遺す家族への毒親の説明書)
だからこうしてブログに綴っているのだ。
私の人生が「死」との距離が近い以上、大好きな私の家族を守るために考えついた事は実行する。そう思い日々を生きている。
父も母も「兄」の罪に関して、
ちゃんと向き合わず10年以上経つが、それは決して「毒兄」のためにはならない。
毒親は常に「親としてちゃんと子供と向き合うのが大切」などと宣っていたが、この有様だ(笑)。
だからこそ「mochi」という存在を自分たち家族の中から「排除」する事によって、束の間の安寧を手にして暮らしているのだろう。心から感じる真の安寧を知らず。
懲りずに同じ過ちを積み重ねる毒親
我が子が悲鳴を上げ、苦しいと叫んだ言葉から目を逸らし「親戚付き合い」を今年より解禁したようだ(笑)。
その行動は、現実から目を逸らして良いよ、悪いのはmochiであって「兄」ではない、そう兄の背中を押している愚行でしかないのに。
つくづく愚かしいよ、全く。
私は自分と向き合ったよ
しんどかった、
今だってフラッシュバックに振り回される日も、眠れない夜もある。
でも傷口をちゃんと見つめなおし、再構築を頑張った。
親との絶縁に、もれなくセットでついてくる「罪悪感」とも向き合い、逃げず、飲み込むまで、沢山の時間を費やし今がある。
きちんと向き合ったからこそ、私はもう二度とブレない自信しかないのだ。
毒家族は、向き合う事により「自分が傷つく事」が怖いから、何も問題などなかった事にするのだ。自分たちが子どもを追い詰め苦しめていた存在だったと認めざるを得ない事になるのが怖いのだろう。
そんなスタートだった2022年(笑)
でも私は正直何も感じない。
相変わらず残念な人たち、くらいしか感想がない。
悩み苦しみながらも自分で乗り越えた経験はいわば「筋肉」だ。
自分の足でしっかり立つための大切な味方、
そして筋肉は裏切らない( ´艸`) ♡
私には筋肉という味方がいるから大丈夫♪
by毒親育ちmochi
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