絶縁通知書(全文)

絶縁通知書(全文)

絶縁通知書(全文)

○はじめに

  • 2017年3月、父母へ絶縁を通知しております。
  • 2018年3月、「診断書のコピー」を、夫が父母に手渡した際、再度「絶縁」の意志を伝えております。

○送付先

  • 父(梅二夫)
  • 母(梅二)
  • 兄(梅二長男・海外住所)
  • 桃四・松一妻
  • 竹三妻
  • 松一長女
  • 松一次女
  • 竹三長女(以上9名)となります。

【表記について】 

○父(梅二夫)○母(梅二)○兄(梅二長男)○私(通知人・毒親育ちmochi)

親族相関図

○送付書類

  • 内容証明にて「絶縁状」
  • 書留にて「絶縁通知書(診断書のコピー含む)」
  • 兄は国際書留にて「絶縁状」「絶縁通知書(同様のも)」
  • ※父母兄へは「暴力被害報告書」も書留にて送付※
  • 〇〇警察署へ「絶縁通知書」「暴力被害報告書」提出済み

○絶縁にいたる前章

  • 私が○○○○年まで(中学二年生)、兄と同居していた頃。兄による暴力及び、性暴力があった事
  • 記憶が蘇ったのは、私が3○歳(○○○○年)の時
  • その時点で、父母兄は「事実無根」と、私の発言を嘘と言った
  • しかし母が「二度と兄と会わなくて良い」と寄り添った発言
  • それを信じ、父母と今まで通りの関係性を続ける選択をした

○私の病気①「希少がん」

  • 私は2012年春「希少がんに」罹患してる事がわかり
  • 2012年6月に手術をしましたが、全ては取りきれず悪性腫瘍は体内に残っており、今もがん拠点病院に通院中
  • その時主治医より「余命2年」と言われ奇跡的に今生きています

○絶縁を決めた事件

  • 2017年3月、父80歳の誕生日を「兄と一緒に皆で」祝いたいと母より電話があり、兄との同席を要求される
  • たった一人の血をわけた兄妹なのに仲良くできないのかと、再度私の発言を疑った母
  • 私は兄への嫌悪で心が拒絶しているので出来ないと訴えるも
  • 父母は再度「家族仲良く」する事を私に強要
  • 兄は性暴力を「覚えていない」と言う
  • その発言は、父母にとっては「やっぱり私が嘘をついている」証明なのだと言う

○私の病気②「複雑性PTSD」

  • 結果、私は心療内科に通院する事になる(診断書在中)
  • 過去の記憶のフラッシュバックに悩まされ今も通院中

○絶縁理由

  • 私は父母への絶望、兄への激しい嫌悪を飲み込み「家族」を続ける事が出来ない
  • 父母兄の動向が漏れ聞こえる事は、私の心をかき乱し強烈なフラッシュバックが起きるため【父母兄】及び【母方家】に関する全ての方との絶縁を決めました

※兄による性及び肉体的暴力の詳細について、梅二家では「無かった事」として扱われているため、私は父母からは一度も「兄にどのような酷い事をされたのか」等に関し聞かれた事がありません。ですが今回すべての方との絶縁を決めたので、詳細を「暴力被害報告書」に記し、

  • 父(梅二夫)
  • 母(梅二)
  • 兄(梅二長男)
  • 〇〇警察署提出済み
  • 私本人(毒親育ちmochi)以上5部のみ、作成し送付しております。

お願い 私の個人情報の漏洩となりませんよう取り扱いは慎重にお願いいたします※

○詳細

私は、2017年3月、父母へ絶縁を通知しました。

(地名)の家に住んでいた中学2年生(○○○○年)まで、兄による暴力に加え、性暴力がありました。

時に首を絞められ、時に包丁を突きつけ「殺すぞテメェ」と言われ、エアガンで打たれたり、兄は「父母への不満」を私にぶつけ、憂さを晴らしていたのだと思います。

私は、これらの過去の記憶に、蓋をしていたようです。

3○歳(○○○○年)まで本当に「全て」を忘れ、加害者である兄とも何の疑問を持たず、家族関係を続けていました。しかしある夜、何気ない母の「ひとこと」がきっかけで、過去の「おぞましい記憶」が一気に蓋を開け、思い出しました。

今もですが、性暴力や、父母の言葉の暴力の記憶がフラッシュバックする時、まだ「奥に記憶があるのだろうな」と感じるけれど、頭にモヤがかかりそこでプツリと途切れます。なので、全てを思い出しているのか、今もわかりません。ただ自己防衛本能が、これ以上思い出さぬようブレーキをかけている実感があります。

フラッシュバックが起こると、激しい頭痛と吐き気、体の震え、絶望感が襲います。これらをコントロールするため、2017年より投薬治療とカウンセリングを続けています。この苦しさとは、○○○○年から今も現在進行形でずっと戦っています。

○○○○年、突然思い出した兄の記憶。

きっかけは母の「あんたって兄の話をするといつも不機嫌になるわよね」という言葉でした。

なぜか昔から兄に対し「嫌悪感」があったのですが、改めて何故なのだろうと、私自身に問うたら、「おぞましい記憶」が一気に蓋を開け私を襲った、という嘘のような本当の話。

意を決し、その場にいた父母へ「兄による性暴力の被害」を訴えました。そして二度と兄とは会いたくない、と言いました。

父母は私の話を疑いました。そして父は「今俺たちの目の前で直接兄に電話をして、嘘じゃないか聞け」と怒鳴りました。そう、父母の目の前で「性被害者」が「性加害者」に事実確認をするという、有り得ない提案の強要。

そばには、幼い私の子供たちがいる、そんな状況でいきなり開いた過去の記憶は吐き気を伴い、戸惑う私に、父は「嘘を付いてないなら聞けるだろう」と怒鳴りました。その父の言葉に私は、自身の潔白を証明するため、仕方なく憎しみを胸に、兄へ確認の国際電話をかけました(スピーカで)。

兄は「え、そんな事あったかな。よく覚えてへんわ」とヘラヘラ笑いながら答えました。「まぁ、あの頃の家、歪んでたからなぁ」とも言いました。

すると間髪入れず母が怒鳴りました。「覚えてないって言ってるじゃない、あんたが嘘をついてるって証拠じゃない、歪んでたって言うの、あんたたちは何もかも全部私のせいにする。何で私だけが悪いのよ、いい加減にして」と。

父母兄による言葉の暴力行為、あの夜のことは、忘れたくても深く記憶に刻まれて、忘れられません。

父は「覚えていない」という事は、そんな事実は無かったって事だ、と言い受話器を奪い、電話を切りました。その後、怒鳴り合いの喧嘩の記憶と、実家の玄関を出たところで、母が追いかけてきた記憶。

「しばらく実家に来なくていいのよ、無理しなくていいのよ」と、心に寄り添う優しい言葉をかけてくれました。そして「私の前で兄の話をしない、二度と兄と会わないで良い」と約束してくれました。

傷ついたにも関わらず、それでも私は、母の言葉が嬉しかった。だから私は母を信じ、その後、何事もなかったかのように振る舞い、医療機関等含む「誰」にも相談せず、一人フラッシュバックに苦しみながら、何とか両親との関係を継続しようと努力してきました。

しかし、母の約束は果たされませんでした。父母の言葉の暴力行為は収まるばかりか、2年も経つと頻度や、程度が増悪していきました。

父は私の前で、子どもたちに「海外のおじちゃん(兄)だよ」と写真を見せました。やめてほしいと伝えると「お前には見せてない、孫に見せてるだけだ」と不機嫌になる。

母は、父の80歳の誕生日に合わせて兄が海外から一時帰国すると告げました。そして父母兄と私の家族「全員で一緒に」お誕生日をする「予定だから」と、決定事項として私に告げました。

私は言いました。「父母兄で祝いをして、別日に父母と私の家族で祝わせて」と、しかしその言葉を母は無視し、返答を避けました。

数日後の木曜日、母から電話がありました。「今週末、兄も一緒に誕生日を行うから、土日のどっちがいいかしら。兄はどっちでも良いから、あなた選んで」という言葉から始まりました。

私は「前にもいったけど、、兄とは同席できないから、週末は父母兄でお祝いをして、別の日に私たちだけでお祝いさせてほしい」と。

母が怒鳴りました。「本当なのそれ、あんたは昔からくだらない嘘ついて親の気を引くところがあるから。それに兄は覚えていないって言ってるのよ」

私は言いました。「やってない、じゃなくて覚えていないって言ったよね。普通なら(性暴力の疑い)怒るよね。それにお母さんの言っている事は、性被害者に対して、性加害者と同席しろって言ってるんだよ。お母さんはレイプされても相手を許せるの、私は出来ない」と。

母は「じゃあいいわよ、もう一度兄に確かめるから。本当じゃなかったら…」と怒りながら言葉を続けようとしたので、私は言葉を被せ言いました。「兄に確認しても構わないけど、その返事を私に聞かせないで。それってセカンドレイプだよ」と。

母は言いました。「あんたは言葉ばっかり生意気で%$#…」怒鳴りすぎて何を言っているのか聞き取れない母へ

私は「絶縁させていただきます」と言い電話を切りました。

その週末、父母兄は【松一妻宅】へ遊びに行ったと、後に【松一次女】より聞きました。楽しそうだったとも。

それが2017年3月です。

性暴力に対し、父は「くだらない嘘をつくな」

母は「いい加減水に流せないの、あんたさえ黙っててくれたら上手くいく、いっそ、ずっと思い出さないでくれてた方がよっぽどマシだった」と吐き捨てるように言いました。

そして父母は「たった一人の血を分けた兄妹なのだ、なぜお前は仲良くできないのか」と怒鳴りました。

兄に対し、父母がどういった対応をしたのかわかりませんが、私に対しては、再度「家族に戻る」よう求めました。父の80歳を祝う計画の電話は、私の心を決定的に追い詰め、壊しました。

性暴力の【被害者(私)】と、【加害者(兄)】の同席の強要という、耐え難い言葉での暴力及び脅迫の母からの電話。

父の祝いをする気持ちはあるけれど、兄と同席は出来ない。別々にお祝いさせてほしいという私の願い。しかし母は、「嘘をついているのではないか」と再び疑いの言葉を放ち「いい加減水に流せないの、あんたさえ黙っていたら上手くいくのに。いっそ、思い出さないままだったら良かったじゃない」と。

今でもこの日の記憶は辛いです。

私の精神はいよいよ耐えきれず、生命の危険さえ感じるに至り、心療内科に助けを求めました。

病名は『PTSD(心的外傷後ストレス症候群)』長期にわたる精神的肉体的虐待によるもの。

私にとって父母は、苦しみを分かち合ってくれる存在ではなく、さらに辛い奈落へ突き落とす存在です。

この一件は、父母兄と「会う事」を私が想像しただけで、恐怖とフラッシュバックを呼び起こすようになりました。悪夢に苦しみ、眠ることの出来ぬ日々が続きました。医師は、診断書を父母へ渡す事を提案してくれました。

その診断書は、コピーを夫が父母へ直接手渡し、その時夫から改めて絶縁の意思を伝えております。

父母は、精神科の診断書なんて、お金さえ払えば好きなように書いてもらえる信憑性のないもの、の様に言ったそうです。夫は「これだけの量の薬を飲んでいてもですか」と聞いたそうですが、「そんなの言ってくれなきゃわからない」と言われたそうです。

あれから現在も、私は、父母兄との交流を一切絶っています。

私の子どもたちへは、父母と会わなくなった理由、兄とは今後も合わない理由を、性暴力以外、全て伝えております。そして「祖父母に自由に会って良い事、私に気を使わないでほしい事、子どもたちを巻き込んでしまい申し訳なく思っている事」を伝えています。一度ではなく、繰り返し、今も伝えております。私と夫が子どもたちに「祖父母への接見を禁止」したことは、一度もありません。

2022年1月2日に、【松一妻宅】へ父母が出かけた話を【松一次女】より聞きました。その日兄は、テレビ電話を使って皆と「楽しく会話」をしたそうです。父母と兄は、現在も「以前と変わらぬ交流」を持っていることも【松一次女】より聞きました。そして【松一長女】とも交流を持っているとも。

さらに、2022年1月17日、父が心療内科へ「私の病状を問い合わせる電話」をかけてきた事を、医師より聞きました。

この二つの事柄は、私の落ち着き始めていた「心の傷」をえぐり、再びフラッシュバックが起こる、辛い日々への起爆となりました。父も母も兄も「性暴力は存在しなかった」、そんな共通認識で生きているのだという現実。頭を鈍器で殴られたような、激しい衝撃、そして痛み苦しみへ、再び私を突き落としました。

安寧に暮らせるよう、再び今私を苦しめている激しいフラッシュバックに対し、医師、カウンセラー、薬の調整で、穏やかに過ごすための努力をしている状況です。

心の安定した生活を脅かす不安を取り除くため、やむを得ず

「絶縁状」を、

  • 父(梅二夫)
  • 母(梅二)
  • 兄(梅二長男・海外住所)
  • 桃四・松一妻
  • 竹三妻
  • 松一長女
  • 松一次女
  • 竹三長女【以上9名】へ内容証明にて郵送いたしました(兄は国際書留)。

なお私は、2012年に「希少がん」の告知を受け、余命2年と宣告され、今も、がん拠点病院に通院治療中です。

義母へ、実家と絶縁に至っている事、病気(がん・PTSD)そして現在までの事を「性被害以外」伝えております。すべてを承知の上、ご理解を頂き、穏やかかつ良好な家族関係を、再構築させていただいております。

 絶縁を伝えた一年後(2018年)、父母が数回に渡り、夫の勤務先に電話をかけ、受付に「苗字と電話番号のみ伝言を残す」という、金融問題と疑われかねない行為もありました。その行為は、何もやましいことのない夫に、誤解を与えかねない、社会的信用に関わる行動でした。夫及び、夫の家族へ、これ以上迷惑をかけたくありません。

幼少よりお世話になった方々にこの様な文書を一方的に送付し驚かせてしまい申し訳ございません。しかし私は今現在、二つの病気(がん・PTSD)を治療しながら、いつ人生が終わるか、先の見えない不安を抱え、生きております。だからこそ、命のある限り、自分の人生がより良いものになるよう、笑顔溢れる生活を過ごすため、血の滲む思いで父母へ絶縁を告げました。

その後も父母への罪悪感と闘い、苦しみながらも、夫や子どもたちに守られ、励まされ、何とか、今日まで過ごしてまいりました。

子どもたちも私の病気(がん・PTSD)を知っています。

安寧な生活を大切に過ごしたい。そして夫と子どもたちを守りたい、それが、余命を過ぎ、奇跡的に生きている私の、唯一の願いです。体内に悪性腫瘍を残し手術を終え、完治が見込めぬ、難治性希少がんと共に生きています。傷つけられたり、悲しみや苦しみに耐える時間ではなく、穏やかで笑顔溢れる時間を送りたいのです。

私はもう充分に、親子・兄妹関係に向き合い、考えに考え、耐えてきました。

兄による性暴力の過去を水に流せ、という父母の考え方 。「覚えていない」とだけ告げ、私に対し謝罪すらない兄。

がん告知の夜の母の第一声は「私の老後がなくなったのね」でした。これもまた忘れたくても忘れられない、辛い記憶。

体内に悪性腫瘍を残し閉じた事は、退院した後、一度目の診察に告げる、と先生と父母夫で決めたはずなのに、術後の痛みに耐えている入院中の私に「手術で、横隔膜が取れなかったのは残念だったな」と、あっさり教えた父。余命2年と告げられ、余命期間中だった私に「孫たちを養子にしなければ、あんたが死んでも面倒は見られない」と言った母。

父方の祖母が亡くなった後、「娘がいても何の役にも立たなかった、隣家の人の方がよっぽど優しかった」と責めた母。

分不相応かと、別の町への引越しを考えていた私に、マンションの頭金の一部を出すから「お願いだからそばに住んで」と泣いた母。住み始めたら「いったい誰のおかげで住めてると思ってるの」と何度も私と夫を責めた母。

孫である子どもたちの目の前で、夫と義実家の事を悪様に怒鳴り続けた父母子どもたちの前ではやめてと言うと「事実だから、しょうがないじゃない、隠す必要なんてないわよ」と言った母。

夫の出身大学を三流と、仕事を「所詮土建屋だからな」と言った父。

購入したマンションは、母が頭金を一部支払ったから「絶対に義両親を家に入れるな」と言った母。出産後、絶対に義両親に先に抱かせてはダメと言った母。

義実家へ行くのを嫌った母

義父の認知症が進み、孫である子どもたちと会いたがった義父に対し、「あんたの夫が一人で行けばいいじゃない。絶対に孫を連れて行くんじゃないわよ、だってあんたの夫ん家、家買ったお祝い渡してないんだから、会わせちゃダメ」と不機嫌に言った母。

母には、息子が購入した家を見たいであろう義両親に、家にあげず、お金だけをもらう事は出来ない、と言ったが、親なら、渡すのが当たり前よ、と吐き捨てた母。夫と義両親を悪様に言ったあの夜は、私たち家族が義実家から帰ってきた時だった。

じゃぁ、一生義実家にいかなきゃいいの、と聞くと、「そんなのパパだけいけばいいじゃない、子どもも連れていきたきゃ、私に黙って行きなさいよ」ときれ散らかした母。

あの時の私は母の不機嫌が怖く、従うべきだと、これが正解なのだと、思っていた。

私の子ども①の出産の祝いを【桃四夫妻】が、届けにきてくれた時、「いい。絶対にマンションにあげちゃダメよ。そして子ども①を桃四に抱かせちゃダメだからね」と言った母。出来ないよ、と言った私に、「あんた桃四と母親どっちが大事なの」と睨みつけた母。

これら言葉の暴力は、あまりに酷く、その度私を奈落へ突き落としました。しかし、母の言いなりだった私は、エントランスで、お祝いを受け取り、子ども①を抱かせず、不義理な事をした。

義父が私の子ども②と会ったのは、出産時の病院を合わせ、3回だったと記憶している。過ぎた過去とは言え、義父に子どもたちを会わせなかった事への後悔と、義母と夫に対する申し訳なさで胸が痛む。しかし、どんなに謝罪しようとも、その過去が戻ってくるわけではなく、義母の悲しみが癒されるわけでも義父が生き返るわけでもない。

だからこれは、私が一生背負って行かなくてはならない罪だと自覚し生きています。

そんな不義理の限りを尽くした私に、義母は「いいじゃない、もう過ぎた事よ、それより、がんの事、知らなくてごめんなさい」と言葉をかけてくれ、本当に感謝してもしきれません。

私ががんを告知された時、「いい、絶対に誰も言っちゃダメよ。あの人娘さんが、がんなんだって。近くに住んでいても、先に逝っちゃうなんて気の毒ねって、他人は言うんだから。あと親戚関係に言っちゃダメ、可哀想って思われるだけだから」そう言った母。

だからね、私は誰にも「がんに罹患している事」を言わずに生きてきた。初めて人に話したのは、2018年、【松一次女】だった。義母に伝えたのは、2020年の冬だった。本当に、一人飲み込み、夫に励まされ生きてきた。

本当に困った時に助けてくれる実の「父母」が「私にはいない」という深い悲しみ、心細さ。

そして私の罪はどうしたら償えるのかと考えながら、死との近さを抱え、心身に重りをつけて生きている日々。

絶縁を告げたからといって、心が急に楽になる訳でも、過去の記憶が消え去るわけでもありません。現在もフラッシュバックに苦しんでおります。これ以上、いつ起こるかわからない「父母兄との再会の強制」に怯え、薬が無くては眠れぬ日々に耐えるのは、自身に負荷を課すのと同義です。

少しでも父母兄の動向が、私の耳に入らないようにする事が、心の安定に繋がるのだと、今回の二つの事柄で理解いたしました。ですので今後は、父母兄だけではなく【母方家】に関係する方とも全ての縁を絶つ決断をいたしました。これは私が安心して、限られた時間を、安寧に生活するためです。

ここに至るまでの経緯を、あくまで「私の一方的な目線」ではありますが、ブログに綴っております事も、併せてお伝えいたします。

この文書をもちまして、送付した方々と「絶縁」いたします。今後、冠婚葬祭等含む一切の交流を断ちます事、ご了承願います。

つきましては、被通知人に対し、今後、私やその家族(夫の家族含む)、夫の勤務先、友人、知人などに対し、一切の電話・電報・通知・訪問その他の連絡・接触(SNSのDM、リプも同様)を取らないよう、申入れ致します。兄による性暴力、父母による精神的肉体的虐待の過去、今回送付した文書は全て、〇〇警察署に相談し提出済みです。(2020年・2022年)

ご理解いただけますよう、申し添えます。

早々

2022.03.03

by 毒親育ちmochi