毒は一気に幼い頃の私へ戻す

毒は一気に幼い頃の私へ戻す

私は、長年「認知の歪み」の中で

生きてきた。それは毒親家庭に育った人は、程度の違いこそあれ、心の負荷に耐えてきたのだと想像するに難くない。

母を好きなのに、大嫌い。幼子なら可愛らしい反抗。

自我が育ち気が付く「母を好きなのに、嫌い」この相反する気持ちは、どうやっても消化出来なかった

好きなのだ。だって母なのだから。

愛されていた実感もちゃんとある、大切に育ててもらった実感だってある。一緒にいて安心し、心強いと思ったことだって、もちろんある。

ただ、どうしようもなくダメなのだ。近くにいると、必ず心をえぐる言葉をかけてくる。

私の愛を確かめようと、

二者択一を迫る。母の寂しい時、何をおいても一番に優先しなければ、確実に心を射抜く激しい怒りの言葉を浴びる。

だから、気がつけば、私から母に頼ることが出来なくなっていた。母から差し向けられなければ、怖くて頼れない。その姿がまた、母を怒らせる、悪循環。

電話ですら、子供の要望よりも、母が不機嫌になるのが嫌で、私から切れなかった。

私の心が不安定になるのは、

常に母からの一言。不機嫌な口調、イライラした態度、厳しい言葉、それらは全て成人である私を一気に「幼い頃」の私へ戻すのだ。

怖い、怒られたくない、萎縮する心。

結婚して家庭をもっているんだ、

母の言葉を気にしなければいい、気にしすぎだ。もしくは、やめて欲しいと言えばいい、親なんだからわかってくれる

そうだよね、大抵の人はそう思うよね。だって「親」なんだから。

試したよ、何回も。

気にしないようにする事も、傷つく言い方をやめて欲しい事も、

でもさ、結局、私が「我慢して」「飲み込んで」「母の機嫌」を「最大限大切にする」以外、母が優しくしてくれないのだ。

その最大限ですら、地雷が埋まっているから、一か八かの賭け、全てが母の「気分次第」だ。

悪性腹膜中皮腫とわかっても、

「がん」に罹患した娘を「予定していた老後と違った」と、私も老後を諦めるから、あなたも頑張って、そう言ったんだよ。

泣きたいのは私の方。諦めなきゃいけないのは私だよ。

でもさ、それすら言えなかった。ひたすら心の中で「ごめんなさい」って思ってた。

がん拠点病院に入院中も、

通院するのが生活の一部になってからも、いつ「美味しく」ごはんが食べられなくなるんだろう、いつ?いつ?が心に溜まっていく。

生き急ぐ。そんな言葉通り、「老後」を考えて我慢していた事も、「もったいないオバケ」も、

がんと天秤にかけて、必要な我慢ではない?と思ったことは楽しむことに決めた。

母と心の距離が少しずつ出来た、

すると母が距離を縮めようとする。それでも再び距離が開く、たまらず母が「恩知らず」と責め、「罪悪感」で呼び寄せようとする

その繰り返し、何も改善しない「母が笑顔でいる」ための「私の我慢」。一体これ、いつまで続くの?

もう母の乱心に付き合えなかった。限界だった。

でも、街ですれ違ったり、

遠くで見かけ、元気そうだど、ほっとする。どうして、ここまで健気なんだろうね。

でも、再会したい?と聞かれたら、答えは「NO」だ。

毒親と理解し、絶縁を避け、

うまく距離を取り、生活している方もいる。

絶縁に関しては、やはり自分で答えを「出す」しかない。

私の場合、母と会う、想像するだけで心身が拒絶する。心だけではなく、体も拒否をするのだ、だから再会は、無理だと思っている。

何度も、何度も、試した結果、一つだけ確かなことがわかった。毒親は絶対に変わらない。そして自己を反省などしない。

だからこそ、苦渋の決断なのだ。

好きだけど、一緒にいられない。なぜなら、母といると傷つけられ、苦しいから。

そして、何度理解を求めても、わかってもらえた事はなく、それ以前に言った言葉すら覚えていなかった。

ふう、なんで今日は母を思い返した?

それは、お義母さんが

「心配」して電話をかけてきてくれたからかな。嬉しいよ。大丈夫?その言葉が、とっても嬉しい。

何気ない優しさ、すごく心に滲み入る。やはり義母は心が真っ直ぐな人だ。

お義母さん、ありがとう。

あなたの息子を守れるよう、考えて行動するね。

by 毒親育ちmochi