毒親の罪、言い逃れさせないよ?

家族間の事件を耳にすると、
私はたやすく「密閉された家庭」であったのだろうと思ってしまう。
兄は私が物心ついた時から「長男」「跡継ぎ」「同居」「介護」私の耳にもタコができるほど、これらの言葉を浴び続け成長していった。
引越しをし、ますます家庭が閉鎖された空間へ変化をするのと呼応するかのように、兄は「怒り」を溜め、心を内へ内へ向かわせていった。(よろしければこちらもどうぞ↓)
しかし溜まる一方では
限界はやがて訪れる。兄は初めは怒りを物へぶつけていた。壁やドア、椅子を壁や家具に投げつける、
そこで原因を、兄の不満や言い分を、兄が発する危険信号と受け止める勇気が父と母にあったのなら、きっと私への性及び肉体的虐待は起こらなかっただろう。(よろしければこちらもどうそ↓)
だがそもそもが毒母に
加勢する父親しかいない家。残念だけど、心の叫びを、怒りの根元を、やはり「言葉と拳」の「暴力」で「押さえつける」事しかできない両親。
暴力は暴力しか生まない。憎しみの連鎖が続くのと同様に。そして反抗心を持った中学生だった兄、本気でやりあえばまだ父が勝つ。
何度見ただろう、
父に叩きのめされる兄の姿を。何度見ただろう、手当たり次第に物を兄に力一杯投げる母を。
子供とて馬鹿ではない、学習する生き物。兄はやがて父が不在中(単身赴任)、「あえて」手がつけられない程に暴れ始めた。
泣き叫び「お願いだからやめて」と降参する母の言葉を聞くまで暴走は止まらない。フッと殺気の様な空気が消える頃には、兄も母も髪は乱れ、壊れた物が散乱し、どこかしら血を流しているのだった。
そのうち母は兄へ気を使う様になる。
そして母の鬱憤は私に向かい、やれ勉強だ、習い事だ、と「難癖」をつけては責め殴り、「なんでわかってくれないの?」と泣き崩れるのだ。
小学生であった私は、そんな風に泣く母に一体何ができたというのだろうか?ただひたすら「私が悪い」そう素直に思い謝る以外、思い浮かばなかった。
父が不在の約3ヶ月、母が気を使う→私を折檻する→兄激怒→母と兄の暴走→母気を使う…この繰り返し。
そして3ヶ月に一度、金曜日の夜に家に帰る父。母が兄と私の「至らなさ」「反抗心」「勉強しない」「生意気」それらを父に金切り声で訴える。
私に全てを任せっきりのあなたが
一番悪い、泣き喚き父を責める声を遠くに聞きながら怯えるうちに朝になる。
運が良ければ、土曜日学校から帰るまで父に叱られないが、運が悪ければ金曜日の夜中だろうが、父は私の部屋に入ってくる。
父がいる土日はまさに地獄だった。誰も痣を作らず父が赴任先へ戻ることはなかった。
何度「殺される」と思ったことだろうか。それは父にも母にも兄にも。つまりは家族全員に。
しかし外から見える我が家を、父も母も穏やかな家庭に見えるよう、完璧に演じきっていた。
やがて兄は「加虐性」を
身につける様になる。私は知っている、エアガンで生き物を打っていたのを。私は知っている、引き出しに何度もナイフを突きつける姿を。
そしてそのエアガンもナイフも、全て母が買い与えたものだということも。そう、抑制の効かなくなった息子を金品でなだめたのだ。
買い与えた品が、娘への加虐の道具になるとツユほども考えずに。
子育てを経験し子供たちの年齢がある程度を過ぎた今、本当に母は想像力が欠如していたんだと呆れてしまう。
家庭内で暴れ部屋に引きこもり、
会話をほぼしない思春期の少年に「武器」を与える危険性。「これで大人しくなるなら」そんなエゴで買い与えるには危険すぎる品物だ、ありえない。
一体その「武器」を何に使うのか?これをまず問うべきだった。なのに何丁も買い与えた事が信じられない。
だって母は兄に椅子で殴られていたのだ。いつ買い与えた武器が自分に向けられるか、そんな不安を感じなかったのだろうか。
そして、家庭で一番立場の弱い「私」がいることを心配もせず。父の兄の不満を「私」で晴らす自分(毒母)がいるのに、父と兄が同様に「私」で晴らす可能性を想像もせず。
兄は憎しみを溜めに溜め、
父へ母への恨みを「私」で晴らした。しかも親の目の無い時を見計って。
確信犯だ。そしてひどいこととわかって「あえて」行った「暴力」
だから私はおぞましい記憶、嫌悪の記憶、汚れた記憶を「パンドラの箱」に詰めたのだ。
そうでなければ、学校へ何食わぬ顔で登校などできなかっただろう。
真っ当な意見は誰も聞いてくれず、暴力は止まず、心が休まる時は「眠っている間」だけ。
そしてパンドラの箱すらも
母の手でこじ開けられた。それでもまだ私の心は何とか形を保ち続けていてくれた。
癌の告知、その際の母の言葉、でもまだ私の心は健気に頑張っていた。(よろしければこちらもどうぞ↓)
性及び肉体的加害者である兄を「水に流し」会え、この時私の心はもう頑張れなかった。
とうに超えていた限界を、それでも発破をかけ形を崩さない様、懸命に耐えてきたけれど、もう無理だった。(よろしければこちらもどうぞ↓)
あなたは生まれてきて幸せ?
と聞かれたら、答えは「NO」
今幸せ?そう聞かれたら「YES」だ。
最大の苦悩は、洗脳と支配による依存関係のなかで、この世に二人命を誕生させてしまった重責だ。
常に「私と同じ経験をさせない」最大限の注意を払い、呪文のように自己を確認しながら生きた十数年。
それでも母の支配下にあり、
そこで癌の告知、しかも希少癌。人生の苦痛が3つに増えた。
毒親、トラウマ、余命だ。
それでもなお支配下にあり、兄による性及び肉体的虐待を掘り返し、再び水に流せと迫った時、
ようやく四十数年の親からの支配から「逃げなくては死ぬ」と気がついた。
そして人生の苦悩が4つ、
毒親、トラウマ、余命、フラッシュバック。
生まれてきて幸せ?とは
聞いて欲しくないな。
毒親である父と母、そして毒兄と縁を切ったからといって苦悩が消え去るものではなく、
前触れもなくフラッシュバックは起きるものだし、癌の腫瘍は体内に残ったままだし、阻害薬を飲み忘れると脳が不調を訴えるし、
これらの事実を「私」が受け止め、辛かろうが苦しかろうが体調が悪くとも、縁を越え壊れた心を修復しながら、生きるしか無いのだ。
そう、辛さも痛みも消え去らないから辛いのだ。飼い慣らす、諦める、忘れたフリをする、なんでもいいけれど、やり過ごす以外ない。
そしてこの苦痛を毒親自身が微塵も反省していないという納得のいかない現実。
夫は言う、こんな壮絶だったとは。だけど私は知っている、私より過酷な人生を。
家庭を密室にしてはいけない。
こんなことをぽそり投稿していたところで、何になるのか?私は過去を恨み生きているのか?いいや違う。
一番に知らしめたいのは「毒親と毒兄」に。
あなたたちが私に与えた苦痛はまだ癒えないよ、と。
だけど自力でなんとか這い上がってきたよ。
だから私が先に死んでも、絶対に夫と子供たちに近寄らないで。
私の大切な家族を「言葉」であったとしても傷つけないで、と。
そうだ、うん、それがしっくりとくる。
あの人たちは「人間」じゃないから。
私がいなくなったら平気で子供たちへすり寄るだろうから。
だからやっぱりこれはデジタル遺産。
私の保険。
私が死んでも、子どもたちを守る助けとなるように。
毒父、毒母、毒兄の罪は許されるものではないことを「世間」へ告発し、知らしめること。言い逃れさせないよ?
私は家族が幸せを感じて生きてくれるならそれだけでいい。
他は何もいらない。
不幸も病気も苦悩も全部私が背負ってあげる。
だけどそれができないことも知っている。
だから守るにはどうしたらいいか、一生懸命考える。
それも私の幸せの一つ。家族を想うこと。
愛は愛を増やす、そう信じているから。
by毒親育ちmochi
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