遺す家族への毒親の説明書

遺す家族への毒親の説明書

2020年2月にはじめて

【楽していこう|悪性腹膜中皮腫と沼】というタイトルでブログを開始しました。

(※楽して行こう|悪性腹膜中皮腫と沼は、今は中皮腫に関して投稿しております 2020年7月1日 ※)

https://cyuhisyu.rakusiteiko.com

ブログを始めた理由

やはり私が癌患者である以上毒親より先に世を去る可能性が十分にあること、そうなれば子供たちが過去の私のような理不尽を味わうだろう危機感から。(よろしければこちらもどうぞ↓)

デジタル遺産として子供に残したい

どうして「私」が毒親を拒絶し

絶縁を宣言し「子供(孫)」すらも毒親に会いにいかないまま時が過ぎたのか、その真意を遺しておきたかった。

それこそ物心ついた時から親に対するモヤモヤを抱え成長し「意思」を持った私は、親に理解を求めたけれど「私個人」という人格を「ありのまま」受け入れる事は叶わなかった

絶縁を実行に移さなければ「自由に生きる」事ができなかった、積み重なった過去の苦悩を、

「私の気持ち」を「改竄」される事無く伝えるには自身で遺すのがいいと思ったから。

きっと両親がこのブログを

読んだところで私の苦痛を理解してくれない事はわかっているし、期待もしていない

だけど、この長い積み重ねを手紙に遺すには膨大すぎて無理がある。だからこれは遺す家族への説明書みたいなものかな?

私がいなくなって毒親が夫や子供達を責めた時、これが役に立てばいいなと思って綴ってきた。

毒親の洗脳は本当に解けない。

嘘のような本当の話。辛くて苦しいのに、それでも心が絡めとられて身動きができない

間違っているのもわかっているのに、罪悪感が良心の呵責が「自由」に生きる邪魔をする

子供たちに私と同じ思いをさせたくない。

けれど癌と分かったあの頃は、子供たちはまだ小さくて、私亡き後に母が父がどんな手を使い子供を奪おうとするか正直わからなかった。

母の側で育てられたなら

絶対私と同じ理不尽を抱えた大人になる事がわかっていたから、何としても守り抜きたかった

子供たちが育ったと実感したのか、それとも私の解毒が進んだからなのかはわからないが、昨年ふと肩の荷が降り私の気持ちが軽くなった。

大丈夫、子供たちの背中に羽が生えている、と

安堵の感情かな?私の命など子供の未来を守る為ならいくらだってくれてやる、だからせめてもう少し大きくなるまで持ってくれ、そう私に言い聞かせてた。

毒親育ちの私にとって、

心がスクスク育つかどうか不安で仕方なかった。祈るように確かめるように、常に自己を確認精一杯子供の心と向き合う以外に方法がわからなかった。

決して立派な母親ではない、毒母と同様に金切り声をあげた事も食卓に圧をかけた事も、数えきれない後悔と懺悔を繰り返し今がある。

「母のような母親になりたくない」だからこそ母になった重圧がのしかかり、大切に育てたいのに守り方に自信がない

その上に癌の告知だ。

あの時は神も仏もあるものか、そう運命を呪った。

だけど結果は「余命」を言われたからこそ絶縁ができたとも言えて、皮肉だな笑ってしまう。

なんでもいい、子供たちが私のような理不尽を抱えていなければそれでいい。

心の枷は簡単に外せない。ならばそんな枷は最初からなければいい。

ふわりと舞い降りた安堵のおかげで、改めて突っ走ってきた7年間を振り返る心の余裕が訪れた。

あと私が子供に役立つ事は何?

あの子たちを守ってくれそうなもの、それは過去の歴史だ。ついでに母に父に責められるであろう夫も守ってくれるだろう(笑)。

これは広い広い世界の中の、たった一つの家庭の中で起きた記録。

俯瞰で見ればとても小さい物語、けれど数十年生きる人間の物語だ。

壊れかけた心数十年生きるなんて切ないじゃないか。そう思い「私が」「私を」「自由で楽しい場所」へ「連れ出した個人の記録

子供たちが自由を楽しむ心を

持っていてくれたらいいな。その背中に生え始めた羽を大きく伸び伸びと広げてほしい。

そして、この物語を目にした毒親育ちさんの、絡めとられた心解放するための参考になればさらに嬉しいな。

親が自由な場所へ連れ出して

くれなかったのだ。仕方がない、自分でその場所へ出て行こう

簡単な事ではないけれど留まっていても状況は変わらない

そんな「私」の物語。

改めてまして【毒親育ち|楽していこう】をよろしくお願いします。

by毒親育ちmochi