解毒した今。生き方が美しい人になりたい

解毒した今。生き方が美しい人になりたい

自分が正しいと思うことが、

他者と同じであるはずがない。

楽しさの共有は簡単だけど、お願いに関しては自分が受けれるか否か、返事をする必要がある。

仕事以外で、自分の意に沿わないお願いは、無理せず断るようにしている。

なぜなら、無理をしてストレスになるのが嫌なのと、嫌われないように努力する事に意味がないから。

お願いは絶対ではなく、あくまでもお願いなのだ。断る自由はこちらにもある。

毒親育ちは、

自分の意思で物事を決めることをさせてもらえず、親の選びたい方を、気持ちを汲み取り選んでいただけ。

決して自分の意思はない、たまに選べたとしても失敗したら「ほらみたことか」と責められ、

落ち込み後悔し、責められないためにやはり親の決めた方を選ぶ繰り返し。

幼い、そう年齢だけ大人でも

心は幼いままだった。きっと母は今もそう。未熟なまま、今も私を恨み責めているのだろう。

そこから抜け出せたわたしは、ちゃんと断ることができるようになった。無理をしてまで出来そうにもないこと、意思とそぐわないことは、すべきではないとわかったから。

対等につきあうのに、我慢は要らないのだ。我慢しなければいけないのならば、いっそ一人の方が気が楽だ。

私はお一人様が気にならない。

流石に一人ディズニーランドは無理だけど(笑)。焼肉も、ライブも、映画も、全然一人でいけちゃうよ。

好奇心の方が勝つから、映画は予定を合わせているうちに公開終了になるといけないし、SNSでネタバレも寂しいから、ささっと一人で観るのが好き。

がん拠点病院での診察が終わるのが、大抵午後一番くらいだから、お天気の時は一人ぽちぽち歩いて、どこでお昼を食べようかウキウキ悩みながら歩く。

そしてお店に入り、一人ビールで乾杯だ。自由で開放的で、そして美味い!

こんなささやかな自由が

嬉しいのだ。それこそ、がんとわかってからは尚更、

太陽が、自然が、鮮やかに目に飛び込んでくる。生命を感じる。

そう、今私は生きている。決して平坦な道ではなかったけれど。そして、端からみたらそんな程度、の問題なのかもしれないけれど。

でも、私からしたら、

何度も戦って、血を流し、立ち上がり、歯を食いしばり、ようやく手にした自由なのだ

毒親からの解毒、そんな簡単な道のりではなかった

親なのだ。思い出さない日がないと言ったら嘘になる。それは今でも影を残している。もちろん、吹っ切れているから、振り返りはしないし、落ち込むこともない。

だからこそ「戦い」だったのだ。

自分を生きるための、覚悟の決別

できてよかった。悔いはない。大人になるって、責任とワンセットで自由に生きる事。

やっと自己を確立し、自分の人生を歩き始めたんだ。楽しみ尽くさなければもったいない。

キラキラ輝く人を、

素敵と思っても妬みはしない。「生き方が美しい人」は、きっと同じ分悲しさも苦しみも辛さもわかっている人だから。

みっともなくてもいい、かっこ悪くてもいい、ちゃんと人の痛みのわかる人でいたい。「美しい人」になりたいのではない、「生き方が美しい人」になりたいのだ。

人の痛みのわかる、思いやりのある一言をさらりと言える人は美しい。引き際を知っている人は美しい。美しく生きている人は、棘のある言葉を口にはしない。

美しく生きるには、

歯を食いしばる日があることも、孤独に一人耐える夜もあることも、見えない場所でひっそり耐える日もあるだろう事。

人の痛みのわかる、強く優しく「生き方が美しい人」になれるように、ブラッシュアップしたい。それが今の目標。そしてやりたい事は、我慢しない。

片っ端からやりたい事を並べると、笑ってしまう、全てが「家族」と一緒にしたい事だ(笑)。

こんなにも、家族を大好きでいられて私は幸せだ。

by 毒親育ちmochi