毒親に洗脳されていた実感と異常さ

毒親に洗脳されていた実感と異常さ

毒親に洗脳されていた実感

機能不全家族である父・母・兄と絶縁し3年目となる。

絶縁により毒親である両親を、いやを、悲しませているだろう罪悪感に揺れ動きマックスきつかったのは正味2ヶ月。この山を超えたらつきものが落ちた感じになっていった。

この罪悪感こそが「洗脳」されていた状態申し訳ないと「思うように洗脳されていた」のだ。

それを実感するのは、私が希少がん(悪性腹膜中皮腫)とがん告知された日、真っ先に電話をかけたのは夫ではなく母だった事。

その母の第一声が「私の老後がなくなったのね」であったのに、酷いとう怒りの感情が湧くのではなく、申し訳なさを覚え「ごめん」と思ったのだ。異常でしょ?

異常さを実感せざるを得ない洗脳だ

すごいよね、ほんっとうに異常だよね、自分が生きるか死ぬかって大きな話を打ち明けたのに、母は「自分の将来を心配」しちゃうんだからね。そして私も素直に「癌になって申し訳ない」って思っちゃったんだから、とんでもなく異常であり恐ろしい洗脳。

私は40年ほど毒母の洗脳と支配により生きていた

もともと両親は仲が悪く喧嘩が多く、苛立ちの矛先が子供に向くのは日常茶飯事で、毒母がヒステリックに喚き、それにイラついた毒父が子供を殴り「しつけ」るという、なんとも悲しいほどポンコツ機能不全家族に育った

兄が毒親を捨て海外へ逃げた後、母は私にべったりになった。あれもこれも全部してあげるだから老後は一人にしないでね、と。

役に立たない娘という呪いの言葉を

私にかけ、親以外誰も助けてくれない不安を煽り、年老いて寂しくて悲しい、やらあの手この手で「がんじがらめ」にされていた事に気がつかず、近寄れば苛立ち、離れると不安になるよう「しっかり洗脳」されていた私

だから老後はきっと私が母の面倒を見るのだろう、私の役目だ仕方がない、そう思っていた。そりゃ、やだな、面倒だな、って感情はあったけどでも「事実いろいろしてもらっているから」と恩を忘れちゃいけないと思ってた。

絶縁後すっかり洗脳が解けました

異常だったな、そんな感想しかありません。

親が子どもの独り立ちを邪魔する意味も、本来心配すべきは娘の心身である事も、産んだのに恩を着せ、恩返しを強要する事も、異常だよ

私も母親になった、子どもたちも大きくなった。なったからこそ毒母の歪み、毒父の傍観ぶり、そして自己中心的思考でしかない毒親の異常さ怖いとさえ思う

年齢だけがご老人なのだ

中身は駄々っ子と同じ自分の要求が通らなければ、たとえ言っていることに矛盾があろうとも理不尽な要求をしていようとも、希望が通らなければ不機嫌を貫き、血縁をチラつかせ「希望通りに子ども動かす」のだ。

父の80歳の誕生日である傘寿の祝いに、性的被害者である私(娘)と、性的加害者である兄(息子)同席させることなんの疑問も湧かないのだ。おかしすぎるよ。

毒母の頭にあった希望は、

大勢の人たちを招き娘夫婦そして海外から父の祝いに駆けつけた親思いの息子」という「私たち老後恵まれてますよ」アピールをしたかったのだ。

ちょっと気の利いたレストランで、全て費用は母持ちで、父の元同僚や元部下、絶縁状態にある母方の親族にも声をかけるつもりであった。

だから「娘夫婦不在」だと孫も来ないから「幸せアピール」が成り立たないのだ。そして先に兄に「帰国命令」を出してしまったから兄抜きだと兄が何のために帰国したのか意味がなくなって、揉める原因になるから具合が悪い。

だ・か・ら。

私に過去を「水に流せないのか?」「いつまでこだわっているの?」と脅しをかけた。

何の脅しかって?母(毒母)は今ものすごく機嫌悪いですよー、娘であるあなたうん首を縦に振ってさえくれれば怒りませんよー、でも断ったら爆弾投下しますよーという脅し

今まで洗脳されきっていたけれど、

希少がん(悪性腹膜中皮腫)とわかり生死を目の当たりにし、人生観すら変えた大病後の私だ

術後からちょくちょく「解毒」が始まっていた気がする。理不尽さをちゃんと感じ、嫌な時断る回数が増えていたから。そして母の要求はいつも思いつきであり変更不可わがまま勝手なのもでしかなかったから。

付き合い切れないなぁ

そう思うことが増えていったのだ。だから決定打は傘寿の乱だったけど、遅かれ早かれ「絶縁」に至っていた気がする。それくらいに私はもう母との関係嫌気がさしていたから。

自分の気持ちをわかって欲しくて、

優しくしてもらいたくて、心配してほしい、そして何より一番自分に関心を示し続けてほしい。これが母の本音孤独が怖くて一人が寂しい大人。

家族行事にあまり興味がなく一人で出来る趣味を邪魔されたくない父。食事さえ出てくればあとはほっといて欲しいタイプ。

そんな父と母は喧嘩が多い、無関心と過干渉兄が海外へ逃げてからは全て私に丸投げだった。私が間にいないと両親は「楽しく過ごす」ことが出来ないから。

だから人生の、もしかしたら最大の

イベントになるかもしれなかった傘寿の祝い(80歳だからね)」を、母はどーーーーーしても「家族全員参加」で開催したかった。そして父も母も「兄と私が仲直り」し、再び家族間交流が出来ることを切望した。

いや、無理だから

自分の気持ちは「理解して欲しい」と大声で叫ぶのに、その理解して欲しい相手である娘の気持ちを想像できない人たちなのだ。そりゃ無理でしょう。今ならわかるし、可哀想な人たちだとすら思う。

あのとき私は最大限の譲歩策「兄抜き」でお祝いする事を提案したのだよ?

これは父と母の気持ちを思いやり私としてはこれが限界の策だった。だが返答は「いつまでこだわってるの?」だったから、

あれが洗脳されていた私の心完全に修復できない程のひび割れを起こした

なかなかの過去を乗り越えて

生きてきたと思うよ?親の希望通り結婚して孫も見せて、長男の嫁なのに私の実家付近に家買ってさ、老後だって覚悟してたよ?そんな時に希少がんになってさ、それでも告知の日母は逃げたんだよ。

寄り添って欲しいと言うくせに寄り添ってくれない「親」は果たして本当に親なのか?って、洗脳が解けてつくづく思うよ。

もういいや、いらないよ、おかしいよ、あんたたち

脅しじゃ絆は育たないよ

愛は自分から贈るものだし

大切にしてほしいならば

自分も相手を大切に扱わないと

そんな基本中の基本

親が守らず子に求めてどうするよ?

それは絆が切れてしまうだけ

自由になったからもういいよ

すっかり心が軽くなったもん

by毒親育ちmochi