毒親との絶縁後を生きる現在進行形の私の物語

毒親との絶縁後を生きる私の物語
毒親と絶縁する、もちろん簡単な事ではなかった。
くるりと一度まとめてみた、頭の中の整理整頓の作業。
振り返ると、暴言、暴力、兄による虐待、経済的いやがらせ、これがきっと「家庭が息苦しい」原因だったのだろう。
両親との激しい取っ組み合いの喧嘩は、理不尽さに耐えきれず爆発した私の感情であって、支配から逃げたかったのだと今ならわかる。
両親がちゃんと子供の話を聞いてくれる人たちだったら、今も互いを支え合い笑顔で暮らせていたのだろうけれど、両親がそんなタイプの親であれば私はスクスク育っていたからそもそも論だけどね。
絶縁後を生きる現在進行形の私
もう無理親から離れようそう思ったのはやっぱり母だな。
父の80歳の祝いをきっかけに、兄と私を仲直りさせたかった事が大きい。っていうか仲直りとかっていうレベルの話じゃないのよ?本当に。
両親の年齢的に様々な心配事をクリアにしたかったんだろう。
入院やその先のお葬式や財産相続、そしてお墓の問題、それらが起こった時に兄のみでは話が進まないから。残されたの母の場合、万が一私が激しく拒否をした時、後ろ盾がないから父が生きているうちに「問題解決」したかった、そんな所かな。
もう10年経ったし、金銭的にもいろいろしてやってやってし、そろそろ大丈夫だろう。
だいたい娘(私)に、父親の傘寿の祝いの参加を断る勇気はないはず。強引にでも「参加」を取り付けてしまえば後は、金銭でも渡せば、娘(私)は言い返せなくなる。
これで息子(兄)と娘(私)のしがらみが無くなる、いいアイディアだと思ったんだろう。母、本当にどんな思考回路になってるんだよ…
傘寿の祝いが互いの雪解けに
良い理由づけになる、そう母は都合よく解釈して決行しようと思ったんだろう。いやいや無理よそれ。
実際に母は言ってた、この世に血を分けたたった一人の兄弟なのよ?いい加減に仲良くしなさいよ、これ本気で言ってるのか?と信じ難かった。
父も母も、兄による虐待について、パンドラの箱が開いた日も、約10年後の時も、一度も私の訴えに真剣に耳を傾けてはくれなかった。
私が嘘をついている、だって兄は「覚えていない」と言っているのだから、と。
兄による虐待の痛みよりも、意を決して真実を話した時に「嘘だ」と父も母も二人して信じてくれなかった事、これが私の心の最大の傷。
今もフラッシュバックに悩まされている。
嘘じゃなければ今すぐ兄に電話して、お前がされた事が事実だったか俺の目の前で確認しろ。嘘じゃなければできるだろう!そう言って怒りに震え私に受話器を押し付けた父。
えー、本当なの?あの子(兄)がそんな事したっていうの?と汚らわしいものでも見るかのようなきつい目で私をジロジロと、嘘でもついてたらただじゃ済まないわよ、と言い放った母。
兄になんと聞いたのか、何を確認をしたのか詳細が思い出せない、ただ覚えているのは兄が「あの家歪んでたからな」と「覚えてない」という言葉。
歪んでた、という言葉にすぐさま反応し、ヒステリックに「あんたたちはいつも私のせいにする!何でもかんでも!えええ?なぁに?私が悪いっていうの?私が歪んでるっていうの?……何とかいいなさいよ!!!!」と大声で叫んだ母。
事情などさっぱりわからない小さな子供①がびっくりして泣き始めた。
この光景を何度夢で見たきた事だろう、忘れ去りたい深く深く刻まれてしまった消えない傷。
この日から約10年後、
再び母は私の嘘を疑った。そしていい加減水に流せないのか?と迫ってきた、そう父の傘寿の祝いに兄との同席を望んで電話をかけてきたあの日。
電話の少し前、母とのランチの時、兄が帰国するから一緒に傘寿を祝いたいと打診をされ、私はちゃんと断った。兄抜きで傘寿の祝いをしたい、と。
兄による虐待の大きな塊はわかっているけど細部は全く覚えていない、ポツンと不意にフラッシュバックし、正直あとどのくらいブラックボックスに隠されているのか私にもわからない。その位深い傷なのだろう曖昧な過去。
忘れていたほど軽い出来事、
ではくて、忘れなければ生きていかれない重さだった、そうは理解してもらえなかった。だから母はランチから1週間後に「傘寿の祝い兄が帰国するから、土曜と日曜のどっちがいい?どちらでもいいわよ?」と敢えて屈託なく、それでいて断らせないよう二択しか用意しなかった。
「今更そんなことを言われても困る、なんならずっと思い出さなければ良かったのに」と母は言ったけれど、私自身そう思うよ。
母はこれまでも自分の思い通りに
事が運ぶよう、強引にあの手この手で従わせてきた。そして私は従ってきた。だからこそ母に言ったら嫌われるだろうと「察して」自分の記憶に蓋をしたんだと思ってる。
私は母に寄生されて生きてきた、一番の理解者として従ってきた。役に立つ娘だったはず。
なのに問題が起きるたびに、母は「私でうさを晴らした」。それでも理解者として努力したのに、癌の時も、兄による虐待の時も。
母は一度も私の心を理解してくれなかった。
そして父は一度も私の味方になってくれなかった。
結構深い傷だと思うのだけど、父も母も私の言葉を信じず、海外へ逃げた兄の言葉を信じた。
これがやっぱり絶縁の理由だ。
うん、何回巡っても結局一番は「母」が原因だ。
明るく優しい母であり、娘と仲良しなの、という世間向けの顔で生き、実際は自分の都合を押し通し、娘である私はずっと母の言いなりだった。それでも母の理解者であり続けなくては、そんな呪いにかかっていたのか?
母という呪いから解けたのは、母がパンドラの箱を開けたから。
母からしたら皮肉な話。私からしたら、ようやく支配から抜けられてよかった話。
けれどフラッシュバックは続いていく。
時々何もかもがやり切れなくて泣けてくる日もあるんだよ。
こんなに苦しい私がかわいそうになる日がさ。
だけど原因がわかるのは落ち着く、不安がどこからくのか、おでこの器械が動き始める時に考える、あぁそういえばとね。思い当たると少し楽になる。
まぁ、付き合ってあげるさ、頑張ったもん私。
あのまま両親と兄と会っていたら、きっと私はもっと手遅れになっていた気がする。だから頑張って「母の我がままを断った」私はやっぱり偉いぞ。勇者的な?
by毒親育ちmochi
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