正々堂々、毒親から心が解放される予感

私は毒親育ちで癌患者で複雑性PTSDでもある
2012年春以降の私は、通院が生活の一部となり現在に至る。
希少がんである「悪性腹膜中皮腫」に関しては、治療ではなく横隔膜に残る腫瘍のサイズ確認のため通院。
初めは夜寝られないと主治医に話したところ、希少がんに罹患した事による「不安」「睡眠障害」では?と。そうだなと感じ心療内科に通院していた。
元々母に不信感と理不尽を感じ、
不満と怒りを胸に思春期を乗り越え生きてきた自覚はあった。そして父は殴るか逃げる以外に私と正面から関わらなかった事も。
一つ予定外だったのは、兄による肉体的性的虐待の記憶を封印していたことすら忘れていた事かな?(パンドラの箱の中身が開いた、あの日)
癌患者とわかった2012年4月12日、母と共依存状態にあった私は、夫より先に母に「すがりつく思い」で電話をかけた。
返ってきた言葉は「私の老後がなくなったのね」であった。でもあの時は告知のショックが大きすぎて、母らしいなという感想くらいしかなかった。
その後の私は「余命2年」を
一心不乱に生きていたので、私の心の痛みは全て「余命という病」が原因だと信じていた。
最中は焦り混同していたけれど、思い返せば「母との依存」から抜け出したいと思う大きなきっかけの言葉だったのだろう。
私の癌細胞はざっくり言ってしまうと治療方法がない。無いわけではないが効いたら良いな♪という程度で、一度腫瘍のスイッチが入れば月単位の生死であるのに今も変わりはない。
それも私の心に衝撃の出来事であったし、2012年に起きた様々な癌に関する経験は、やはり痛みとやるせなさの記憶であり、死をチラつかせるものであり、
心に傷は残っていて、たまにフラッシュバックしヒュッと息を飲む瞬間は訪れる。
でも体は大丈夫、対処法は見つけたから。
そんな日は深呼吸をして心臓に手を当てる。
大丈夫、動いている、大丈夫、息が吸える、と。私自身が落ち着くまで、私に声をかけてあげるのだ。
でもね、癌細胞よりも私の心を苦しめたのは母だったなんて、共依存にいた私には思いもよらなかった。
そして毒親の養育環境によって私は複雑性PTSDとなり、今もなお痛みと折り合いをつけ、負の感情に抗うよう、自己を鼓舞し毎日を暮らしている。
母は、そりゃ感情のアップダウンが激しくて
だからこそ痛みもあるけれど、愛された記憶もあるのだから、希少がんになった私に優しく寄り添ってくれると「疑いもせず信じてた」。
信じていたのと同じ分だけ、心は痛んだのだよ。それも「私の命」に対しての母親の言葉だからね、半端ないがっくりだよ。
5年生存率が数%という悪性腹膜中皮腫という希少がんに罹患した私に対し、母は激しく動揺した。そしていつも通り「母の心が傷つかない最善策」を母は一人練り、出した答えが
- がんのことを誰にも言うな、可哀想と思われるから
- 二人の孫(私の子供)を養子にしなければ私の死後面倒はみない
- 私の死亡保険金受け取りを夫から変更し母親にしろ
- ↑これは子供二人に50%づつに変更し強引に母を納得させた
- 私の死後、子供たちは平日は実家で過ごし、休日だけ夫の元へ行く
- 孫を養子にしても教育費、生活費は夫が支払うこと
- 毒兄との過去を水に流し関係を修復すること
これらだった。
細かい事は色々あるよ?だけどざっくりこの8年を説明するとこんな感じ。
絶縁から絶縁後までの経緯をこちらにまとめております。よろしければ→(毒親と絶縁に至る私、絶縁後の毒親の反応は。)
希少がん、これは受け止める以外なくて、
とにかく下の子が18歳になるまで生きられたら嬉しいのだけれど…できる治療がないので、それこそおっかなびっくり現在まで生きていた。
♡子供が18歳になる癌患者となった母親(私)が秘めていた野望もよろしければ♡
養子の件については調べたら一人しか無理だとわかった、けれど、私が死んだら「毒親が引っ掻き回す」事は火を見るよりも明らかで…。
夫も子供たちも義母も、もれなく全員が母の凄まじい「思う通りにことを運ばせる執念」に巻き込まれ、もれなく全員が嫌な思いをし傷つき疲弊するだろう。
母はそれほどに「人を憎む力」を激しいほど強く持っている。
私は毒親と絶縁をし改めて
人の優しさや温かさに気がつき、反省し、私の人生に必要のない感情を丁寧に整理し、再び顔を上げて家族との関係を再構築し、穏やかな暮らしを築き上げている最中で、
だからこそ大切な人たちが「毒親」に、いや「毒母」に傷つけられるのを防ぐには、私が「生きている」必要があるのだ。私が生きている間は家族との接触は防げるから。
私が死んだら毒母は間違いなく
「全て」を夫のせいにし、孫を合わせなかったとなじるだろう。そしてそんな風に育てたと、義母にも詰め寄るだろう姿が、脳裏に簡単に浮かんでしまう、残念だけどね。
そして孫である子供たちさえ責めるだろう、なぜ年老いた私たちをほっておいた?幼い頃あれだけ可愛がってやったのに、と。
夫も私も、孫を会わせないと決めた事実はなく、会いたければ私たちに遠慮なく会っておいでと伝えていた。改めて絶縁を告げた時、夫の口からも伝えたけれど、毒母は「覚えていない」だろう。(毒親との決別は、苦渋の決断だ)
そして全てを周りのせいに
お金をかけてやったのに、恩を仇で返す非道なやつだと当たり散らすのだろう。
だから下の子が18歳になるまで「生きたかった」。できればそれが一番ベストだから。
癌患者であることを、私は義母に伝えていなかった。過去に不義理があり言えなかった。(毒母の脅しの結果、義実家と絶縁)
それに母のことだ、癌に罹患していると義母が知っていたなら、親として絶縁を改めさせようと説得するのが役目だろう、あなたは人として間違っている、程度はツラっと口に出すだろうし。
悲願だった18歳が今月やってくる。
2020年12月、下の子の進学も決まり、そして誕生月でもあって。
そこまで感じていなかったはずだったんだけど、合格通知を見たら、へなへな座り込んで「安堵」そう安堵だ、ホッとして、気が抜けて立っていられなかった。
毒親から守りたいのに余命のある病に罹患して、気持ちだけで乗り越えられるのなら、死に物狂いで乗り越えてやる、でも病は気からとは言っても、最初からハードモードでさ、誰にも言えなかったんだ。
言われた方だって返答に困ってしまうからね。
本当に物事は
光が強いほど影も濃くなるね
頑張ったよ私
頑張ったね夫
ありがとね子供たち
これからもできる限り私は私の家族を守る
やっとだ、やっとなんだ。毒親に何を言われても子供たちはしっかり自分を持つ子に育ってくれたからもう安心だ。あの子たちは互いに話し合って「解決する力」があるから大丈夫。
私はね、毒親という言葉を知った15年ほど前は「親子の縁」を「私から切る」事は出来ないと思っていた。
よく父も母も言っていた、人間死ぬ気になれば何でもできると。まさにその通りだった。死ぬ気でやればできるものなんだね。
死ぬ気で私の家族を守れた気がして、今私はとても清々しいんだ。
これでやっと正々堂々
さよならができる
ばいばい、お父さん
ばいばい、お母さん
ばいばい、元家族
by毒親育ちmochi
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