心細く見送った毒母の背中、過去の健気な私

私は毒親育ちのがん患者。
もうちょっと言うと「希少がん患者」、2012年の春にがんが見つかった。6月に開腹術を行い、約1ヶ月入院生活を送った。(中皮腫の手術から現在にいたるまでざっと書いてみた)
春はね本当に胸がつまる記憶が多いいんだ
- がん告知(希少がん告知を受けるその瞬間まで)
- がん告知直後(おかしいなあと思った診察の順番)
- 帰宅後から(家から一歩も出られなくなった)
- お子養子&学費出す問題(毒親と契約と学費と命、天秤で測れる?)
- 学費出さないと翻り慌てて職を決めた
- お子進路希望について(毒親の希望する孫の進路とは)
- 父80歳のお祝いの探り(私から毒親を捨てた日)
- 絶縁を決めた(毒親の期待する「円満な家庭」とは?)
これらが3〜5月の間に起こっているんだ。
がんの話は『楽していこう|悪性腹膜中皮腫と沼』に綴っているんだけど、昨日ね、ふと蘇ってしまった過去は、がんの話でもあるんだけど…やはり母の話だから、こっちに綴ることにした。
私のがんは、5年生存が数%という
100人に5人???とかそんな数字の生存率のがん患者である。
告知の時、気が付かなければ年内の命だったと言われた。
だからといって早期発見が長期生存に繋がらない、難治かつ治療の策がほぼないがん。
手術をしたけれど、それでも先生は「2年と思って行動して」と告げた、私の横隔膜に残る中皮腫というがんの爆弾。
そんな私の病気を、父も母も熱心に先生に尋ねていたので理解しているはず。
なんなら母は病院の記録を全て日記に付けていて、中皮腫の記事があるとスクラップしてさえいた(自己陶酔ね)。
下の子の中学受験はね、
あの子が小5には私はこの世にいない予定だから、大学附属校を受けさせたかったの。母も私の考えに理解を示し応援をすると言った。
夫はね私立の学費、今後私の病気がどうなるのか、それらを考え無理しないほうがいいんじゃないか?と慎重だった。
母がね
なら私が中学の3年間分の授業料を払ってあげるわ、高校からは自分たちで払いなさいよ、中学分だけでも私が払えば通学可能じゃない?そうしなさいよ。
子どもが困ってるんだもの、このくらい甘えていいのよ?それにね考え詰めてストレスを溜めるのが体に一番良くないわ、だから安心して受験させなさい(聖母の微笑み)。
学費はあげるから返さなくていいわ、その代わりあなたに万が一があった場合は二人の孫を「養子」にする事を承諾する手紙を書いてほしいの。
あなたがいなくなって、孫たちも
パパの実家に引っ越してしまったら、全員いなくなって孫にも会えなくなる未来が不安なの。親を安心させる意味でも、ね、お願い。
そう言ったの。
私必死だった、だって受験日に私が生きている保証さえない。すがってしまった、愚かだけど、藁にもすがる思いだね。
あの子が私不在の思春期である中3に、受験を向かえるリスクと天秤にかけた。
それに私はどこかでまだ、母に申し訳なさをもっていた、兄が海外に移住していて私しか子供はいないのに、がんになってしまってごめんなさいって。(娘が、癌と知った時、母は「私の老後がなくなったのね」と言った)
だからwin-winとさえ思ってしまった。
そういう時の毒親の優しさって凄いじゃない?
まさか娘である私の命と引き換えの「契約」を「反故」するなんて思いもよらなかった。
中学に受かって入学金を払ってくれた。その後、前期の振り込み用紙が届いたので、屈託なく金額を告げた。詳しくは(毒親と契約と学費と命、天秤で測れる?)をどうぞ。
翌日にね、話があると母から電話があった。春の陽気、待ち合わせたマクドナルド。険しい顔の母と横並びで座る、泣きそうな不安に胃の痛い私。
絶対良くないことを言う時の母の
気配しかしないから。
母がいった。
入学金は出してあげると言ったけど授業料まで払うなんて言ってないと。
私は耳を疑った。中学の間の費用を全額持つ代わりの養子承諾の書類なんじゃないの?と。
母は続ける、そんなこと一言も言ってない。いつまでも親の財布を当てにされても困るんだけど。それに図々しくない?出してもらって当たり前なの?あんたは、と。
だから私は、すぐ仕事を決めてきた。だってせっかく受かったの、死ぬかもしれない私の安心のため、私亡き後のお子の安寧のため、考えて悩んで決めた受験だったんだもん。
足りない分は私が働けばいい、
迷っている暇はない。だって私はあの子のお母さんなの、生きている間は「毒」から守る使命がある。
あの時もね、私のショックは大きすぎたんだ。だからあまり考えないように、仕事に没頭するようにして感情をかわした。
そして母に「養子承諾の書類を破棄してくれ」と言えず、母の顔色を伺いながらね。本当バカだよね私。
ふと昨日、入院していた病室から
道路を歩いて家に帰る、だんだん小さくなる両親の姿を泣きながら見つめていた私を思い出してしまったの。
希少がん、どれだけ命が残っているのかわからなくて、お子は小さくて、不安でいっぱいで、私は共依存状態であったから、母が家に戻る背中を悲しみで見送っていた。
春に下の子が大学に進学するの。勉強嫌いだったからお母さん「先見の明」があったね、よかったよ中学受験しておいて、そうにっこにこで語る、私の病気を知らぬお子。
よかった、本当によかった。
「養子承諾」がどれほど効力があるのかわからないけど、私が生きていなかったら「揉めに揉めた」のは明らかだから、夫と子供たちに嫌な思いをさせずに済んだ、頑張った私の体もえらい!
前期の授業料「仕方がないから払ってあげるわよ!でもこれっきりにしてね」と母にきつい口調で言われた。まるで私がたかっているようなニュアンスを入れてね。
泣かないように「ごめんね、ありがとう、助かるよ」と言うので精一杯で、あぁ同じ思いを過去にもしたなと思いながら。(ギブ&テイクのシーソー)
お母さんとして約20年過ごしている私。
子どもたちが私が傷ついた体験をした年齢に近づくほどに、父と母の「歪み」を改めて知る。
そして心抉られようとも笑顔でいるよう頑張っていた、あの頃の健気な私がするりと出てくる。
がんとわかり、余命2年と言われた娘、書類まで書かせたのに「反故」にした母、お金に困っているわけでない、むしろ余裕のある方な事も知っている。
私には絶対にできない「意地悪」だ。その裏切りの重みをふと昨日、改めて思い知ってしまったから辛かった。
子どもを遺す辛さを「同じく母親」である母が、
さらに私を奈落へと落としたのだ。母にとっての私の命などそんなものなんだなぁ、これって結構ヘビーよねと。
母の「なんかタダでお金出すの嫌かも」という、感情が出たのだろう。
中学3年間の学費を払うから、お願いお母さんを安心させてと泣いたのも「自分に酔い気持ちよかった」だけなのだろう。
こうやって昔から振り回されてきた、だから絶縁したんだ。思い出せ私!!
大丈夫、昨日は久々声を殺して泣いたけど、逆に母の「歪み」に気がつける私が私の中に存在している安心もあるから。
それに私なら「大人として」
約束したことは最後まで貫くだろう。
ましてや我が子だ、反故になどするわけがない。なかったことにするのが得意な母らしいな、と共依存の時は思っていたけど、やっぱり母はおかしいね。
父や母とは「違う人間」であること。
この認識はとても大切で、自分の罪悪や、愛されなかった過去が「私のせい」ではなかった事に気づかせてくれる。
私は「なにおいても子ども大事」
「子どもを守るためなら命を投げ出せる」「親が子どもを守るのは理屈じゃない」なんて重みのある言葉を、彼らのように口先だで言わないもん。
っていうかガチでそんなの当たり前、敢えて言う言葉じゃないよ。それにさ、守れないないなら言わなきゃいいじゃん。
自分に酔ってるだけだって、孫も気がついちゃってるよ?
残念だがメッキ剥がれてるよ?もう。
とにかく春に、クッと食いしばり乗り越えた記憶が多くて、揺れるなって話でした。
でも私は負けないよ?
だって今の方が楽しいもん
幸せだもん
by毒親育ちmochi
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