自分を生きている「世界」の範囲

自分を生きている「世界」の範囲

ベストな状態でなければ

人に優しくできない。そんな自分になりたくはない。

自分が変わり、不思議と、心が生き生きしている人と知り合う機会が増えた。

距離の取り方?

それとも全方位に嫌われない努力をやめたから?

わからないけれど、沼の種類は違うが、沼気質の人ばかりなので、皆一応に「一人沼Time(ひとりぬま)」が必要な友だらけ(笑)。

私も昔からそうだった。だって読書は一人で楽しむものだからね。

たまーに、予定を埋めないと不安、という沼友(ぬまとも)と出会ったこともあったが、やはり長続きしなかった

友人関係については、

常々思っているが、数ではない、深さでもなく、ポジションの違う友を持つべきだと。

沼の私、子供の母親の私、学生時代からの友、職場での私、それぞれのエリアで話題で違うのだ。

だから各々の場に友がいると、一方が煮詰まっても、一方で気持ちを立て直すことができる。

1人を楽しめる人は、

人と楽しむのが上手な気がする。

距離が縮まり、本音を交わす度、あぁ人の数だけ事情があり、皆それをひっそり胸に秘め、笑顔で生きているんだ。隣の芝生は青く見える、その通りだと。

ポジションによって私は、のほほんお気楽ヲタクにしか見えてない自信がある(笑)。

それぞれ、踏ん張りどころが違い

気づかれたくない人もいるのだ。私もどちだかというと、そのタイプ。

本当は、ぶわーっと溢れる不安をぶちまけたい!と思う日だってある。

でも、経験上、不安も痛みも、自分で治すしかないのを知っているから、せっかくなら、楽しい話をして「一旦」「暗い気持ち」を「棚上げ」したい

だからといって、不安の根本が

スッと消えるわけではないが、楽しい時間を潰したとしても、直ぐに解決するわけじゃない。

まだまだ「甘える」ことは上手じゃないが、友が相談をしてくれるのは、すごく嬉しい。いくらでも聞くよ、ウェルカムだ。

でも自分の弱音を吐くのはやっぱり、苦手(笑)。まだ無理っぽいなぁ。

毒親と絶縁し、

心身ともに自立をしてからは、今までなら気になっていたであろう、些細な棘も、気にならないから不思議。

それでもたまに、私今機嫌悪いですアピールをする人に、出会う時がある。沼は出入り自由だからね。

内心ビクビクしていただろう小鹿時代が長かった私だが、今ではすっかり気にならない。

むしろ、自分の気持ちをコントロールできず、

場の空気に圧をかける人を、お気の毒にすら思う。

いくらこの場であなたがアピールしても、あなたのご機嫌は自分がなんとかしない限り、いつまでも直らないよ。

せっかく皆が楽しく過ごしているのに、

不機嫌な態度をチラつかせる意味がわからない(いや本当は毒母で散々知っているけど)。

誰かと、楽しい時間を過ごす事、心を共有出来る安心感は、明日を生きる元気に繋がる、大切な時間

大切だと知っている人と、繋がっていたい。自分の人生に必要ではない「負」はもうこりごりだ。

わかってからはね、そぅっと距離を置く技もレベルアップしたからね。

他人の過ちを責めるのは簡単。

でも、後出しジャンケンみたいな人よりも、「そんな日もあるよな」って笑って許せる人は素敵

私もそんな人になりたい。

子供を生きるのも、

親を生きるのも、社会を生きるのも、皆最初の一歩があったはず。

頑張った一歩じゃないか

間違えた経験のあるものが、笑って肩を叩いて「次も頑張れよ」「それも失敗しても次があるよ、大丈夫」って言ってあげられるなら、素晴らしくない?

自分もそんな風に「許され」たくない?少なくとも私は、そんな優しさのある世界で生きたい

世界はうーんと広いけど。

自分の世界はせいぜい「両手を精一杯広げた範囲」。

「自分を生きる」世界の範囲、その範囲なら、許し許され、ベタ褒め、甘え、ゆるりと甘いルールで生きても許されるんじゃない?

「自分の生きる世界」で、ごろにゃんと甘え、癒される場所があればこそ、自分の生きる「外の世界」へ、明日も頑張っていけるんじゃないかな。

いいんじゃない?

好きな人なら、ゆるふわルールで、だって互いに癒されて楽ちんだよ

自分居場所を選べることを、私は知らなかったから、心地よさがたまらなく愛おしい。

気分が低空飛行な時でも、絶好調の時でも、変わらずにいれたらかっこいいな、理想論なのかなぁ。

でもやっぱり、強く優しい人になりたい。

by 毒親育ちmochi