病と共に生きる、そう決めた。

つらつらと
自分の気持ちを綴り始めて、約2ヶ月がたった。
あの時は、世界が「同じ敵」に向かわなくてはならない程、大きく変化するとは思いもしなかった。
毒親と絶縁してから丸3年。
どういうわけか、2019年の冬、気持ちに大きな変化が起きた。理由はさっぱりわからないけれど。
スッと、自分が悪性腹膜中皮腫という「がん」だ、と言う事実。
家族と絶縁している事実。
複雑性PTSDで治療中である事実。
無理をせず、するりと納得できた。理由はわからない。
悪性腹膜中皮腫と知り、毒親と絶縁した。
絶縁を経験し、複雑性PTSDと知った。複雑性PTSDを治療する事で、がんを飲み込めた気がした。
だから、ブログを開設するとき、「テーマ」を一つに絞れなかった。
私の人生を記録するのに、
「中皮腫」「毒親」「複雑性PTSD」どれも削ることのできないテーマだった。
合わさって、「自立」「愛」「絆」「諦観」これを手にしたのだ。
それは、きっと母が「聖母」と「毒母」どちらも本当だったのと同様に。私は確かに愛された、そして確かに傷ついた。どちらも真実の私の人生。
開き直りとも違う、なんだろう、
「飲み込めた」これが一番しっくりくる。
少々の波がきても流されない、大丈夫、そんな実感。
わからないよ?ビビリだから、思った以上の波だったらコロッと流されちゃうかもしれないけれど。
でも「心の平安」を手に入れ、
希望通り穏やかな心と生活を送ることができるようになった。
うん、私もよく頑張った。あれほど泣いた経験も、大丈夫、ちゃんと経験値として取り込んだよ。
昨年末、初めて同病の人と繋がった。
「中皮腫」患者を救うために、真摯に尽力してくださる先生方が存在する事。患者と医療をつなげて下さる方々がいること。
知らなかった、信じられない安堵、そう安堵したのだ。
初めて、「悪性腹膜中皮腫」で「安堵の涙」を流した日。
私は勝手に捻くれていた。
アスベスト(石綿)の使用をやめて、一定期間を過ぎれば、患者は減りこそしても増えはしない。
だから「治療方法」の研究なんて進まない、そう思っていた。
だからあの日、ほっておかれている「腹膜中皮腫」患者、から「患者」へと、自分の意識が変わった。
私に何ができるのか、
それはわからない。
だけど、静かな時限爆弾と呼ばれている中皮腫、体内での潜伏期間が20〜40年、吸い込んだ記憶もなければ、時期すらわからない、
私のような人は他にもいるのだ。そして、患者数のグラフのピークはまだだ。
そして、日本は地震が多い。
古い建築物が崩れたらアスベスト が一気に街に降る。
治療の選択肢を広げたい、それは自分自身のためでもあるし、いつかの誰かのためでもある。
私の「命」がいつまでか。それはさっぱりわからない。
だからこそ、検索ワード「毒親」で
訪れてくださった方へ、
苦しんでいる「あなた」が、少しでも「私だけじゃない」と、ちょっと心を緩める時間を作れたなら、素直に嬉しいです。
大きな変化は揺り戻しも大きいから、無理をせず、自分のペースで「親のため」に生きるポジションから徐々に、「自分のため」に生きれますように。
そして、あらゆる「病」の治療が
進みますよう、強く強く切望し、私は私の出来ることを探し、粛々と生きていきたい。
検索ワード「中皮腫」で
訪れてくださった方へ、
少しでも「光」になれますよう、同じ患者として、微力ながら関わって行けたらと考えています。
くれぐれも、お気をつけて。みなさま、どうか、心と体を大切にお過ごしください。
by 毒親育ち&中皮腫患者 mochi
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