父不在の一年、たがが外れていく家庭

父不在の一年、たがが外れていく家庭

殺伐とした父不在の一年

会話などなく、父が単身赴任から戻ったのは数回だった。兄ともほぼ顔を合わせず、母と私の二人家族のようだった。

私への依存が強くなっていく

母は私と外出したがった。

おしゃれをし、ウインドウショッピングを楽しみ、素敵なレストランへ出向くのだ。店員さんとおしゃべりを楽しむ母、仲の良い親子と言われたい母。

楽しそうにはしゃぐけれど、それも束の間、何がきっかけで不機嫌になるのかわからない張り詰めたショッピング。

そして喋る会話は、悪口ばかり。感情の落差が激しすぎてついていかれず、「黒い感情」が一滴、ぽとんと私の心に溜まっていく。

スーパーへの買い物はもちろん、食パン一つ買うのですら、私を伴わせた。

私が通う美容院、病院、選ぶバッグ、なんでも一緒がいいのだ。私のテリトリーに入りたがる。

黒い感情が溢れそうな不安

一緒に来ないで!また一滴、監視しないで!ほらまた一滴。

「友達のような母娘」「仲の良い母娘」と言われ、喜び微笑む母をみている横で、黒い思いがまた溜まっていく、止められない私。

溢れそうになると、いつも母に反発をした。管理しないでくれ、あれやこれや指図しないでくれ、と。反発というよりもはや、祈りだった。頼むからこの感情を溢れさせるような事をしないでくれと…

同居を決め、3人で引っ越しをした

兄は清々しい顔で、両親と私に別れを告げた。その後兄と暮らすことは二度となかったが、その時は実感もなく、それよりも、新しい環境で慣れるかどうか、そのことが気になっていた。

父の両親(私の祖父母)と、私たち3人の同居生活がスタートした。父方の祖父母は、口数は少なく物静かで、穏やかな優しい人たちだった。

はじめこそ、戸惑いもしたが、やがて「両親」以外に「人の目」があるメリットに気がついたのだ。

環境が変わったからなのか、兄と距離をおいたからなのか、母は以前ほど、癇癪をおこさなくなっていた。

そのおかげか、私もすんなりと新たな環境に溶け込め、やがて友達もでき、やっと「普通」の「学生生活」を味わい、「学校にいくのが楽しみ」とさえ思った。

うまく滑り出したのはパンドラに災いを隠し込んだから

そうとも気が付かず、私はやっと手足を伸ばしていい場所を手にし、安心した生活をはじめていた。順調な滑り出しだった、

20年後に、私の人生の根幹が揺らぎ、再び再構築する苦労がまっているとも思わずに。

しかし、それでいい。祖父母に「甘え」ることができたから。いい思い出だ。

再び母が暴走するまでさほど時間を要さなかった

そう、祖父が認知症になったのだ。介護が必要となっていく。同居しているので、父の兄弟が家族で泊まりに来る、祖父母の親戚が正月にお盆にやってくる、墓守の仕事、病院の送り迎え、

徐々に母のストレスが、私への愚痴だけでは消化できなくなっていた。限界は早かった。そして、やはり父はいつも仕事で不在だ。

私へ「しつけ」として「わめき」「怒鳴り」「つかみかかる」まで、早かった。そして今度は、私を叱る体で、祖父母を責める方法を使った。

次第に祖父母は母に気を使い生活するようになった。私は申し訳なく胸が痛んだが、しょせんは子供だ、なるべく母を怒らせないようにするのが精一杯だった。

私にもやがて反抗期がやってきた

その頃には、祖父はなくなり、家には母、祖母、私、の女しかいなかった。父などいた試しがない。テレビを見ながら会話をしていても、すぐに「一人暮らしの老人」、「優秀な子」を褒めては、祖母と私をけなすのだ。

私はうんざりしきっていた。もうたくさんだった。祖母には申し訳ないが、私は母のいない「外の世界」に逃げ出したのだ。

夕食を家で取る日が少なくなった。当然母から嫌味、そして罵りを受ける。反抗し、「そんなに文句を言うなら出ていけ」と言われればしめたものだ。大手を振って友達の家に転がり込んだ。

束の間の「自由」、でも「本物」の自由ではないことに、目を背け、気になどしていないフリをし、友達と「青春」を謳歌したつもりになっていた。

by 毒親育ち mochi