父不在の一年、たがが外れていく家庭

殺伐とした父不在の一年
父の転勤したのは兄が高校3年生の時。大学受験を控えた兄を転校させられず、父は一足先に引っ越した。
父が赴任先から帰宅したのは数回。
家でも兄とほぼ顔を合わせず、母と私の二人家族のようだった。
私への依存が強くなっていく母
母は私と外出したがった。
おしゃれをし、ウインドウショッピングを楽しみ、素敵なレストランへ出向く。店員さんとおしゃべりを楽しむ母、仲の良い親子と言われたい母。
母は楽しそうにはしゃぐけれど、それも束の間、何がきっかけで母が不機嫌になるのかわからない張り詰めたショッピング。
そして喋る会話は、悪口ばかり。感情の落差が激しすぎてついていかれず「黒い感情」が一滴、ぽとんと私の心に溜まっていく。
スーパーへの買い物はもちろん、食パン一つ買うのですら、私を伴わせた。
私が通う美容院、病院、選ぶバッグ、なんでも一緒がよくて、私のテリトリーに入りたがった。
黒い感情が溢れそうな不安
一緒に来ないで!また一滴、
監視しないで!ほらまた一滴。
「友達のような母娘」「仲の良い母娘」と言われ、喜び微笑む母の横で、黒い思いがまた溜まるのを止められない私。
溢れそうになると、いつも母に反発した。
管理しないで、あれこれ指図しないで、と。反発というよりもはや、心の叫びであり、頼むからこの感情を溢れさせるような事をしないでくれ…そんな祈りに近い気持ちだった。
父の実家での同居を決め、3人引っ越した
大学が決まり、兄は清々しい顔で、父母と私に別れを告げた。
その後兄と暮らすことは二度となかったが、寂しい等の感情は全くなく、むしろその方が嬉しいと感じた。兄なんてどうでもよくて、新しい環境で慣れるかどうか、その方が気になっていた。
父の両親(私の祖父母)と、父母兄3人との同居生活がスタートした。父方の祖父母は、口数は少なく物静かで、穏やかな優しい人たちだった。
はじめこそ、戸惑いもしたが、やがて「父母」以外に「他人の目(祖父母)」があるメリットに気がついた。
環境が変わったからなのか、兄と距離をおいたからなのか、母は以前ほど、癇癪をおこさなくなった。
そのおかげか、私もすんなりと新たな環境に溶け込め、やがて友達もでき、やっと「普通」の「学生生活」を味わい、「学校にいくのが楽しみ」とさえ思った。
うまく滑り出したのはパンドラに災いを隠し込んだから
とも気が付かず、私はやっと手足を伸ばしていい場所を手にし、安心した生活をはじめていた。
順調な滑り出しだった。
20年後に、私の人生の根幹が揺らぎ、再び再構築する苦労がまっているとも思わずに。
しかし、それでいい。祖父母に「甘え」ることができたから、いい思い出だ。
再び母が暴走するまでさほど時間を要さなかった
祖父が認知症になり介護が必要となっていく。
同居している長男の嫁としての応対である…、父の兄弟が泊まる、祖父母の親戚が正月にお盆にやってくる、墓守の仕事、病院の送り迎え…
徐々に母のストレスが、私に愚痴を吐くだけでは消化できなくなった。
限界は早かった。
そして、やはり父はいつも仕事で不在で。
私へ「しつけ」と称し「わめき、怒鳴り、つかみかかる、ビンタ」まで、早かった。
発散方法が私を叱るだけではなく、「思春期にいきなり祖父母と同居したから娘が言うことを聞かない」等、遠回しの言葉で祖父母も責めるようになった。
次第に祖父母は母に気を使い生活するようになる(父は不在)。
胸が痛んだ。
でも、しょせん子ども、どうする事もできなくて、なるべく母を怒らせないようにするのが精一杯だった。
私にもやがて反抗期がやってきた
その後祖父が亡くなり、家に母、祖母、私、と女しかいなくなった。
父などいた試しがない。
テレビを見ながら会話をしていても、すぐに「一人暮らしの老人(立派)」「優秀な子」というニュースを見ては、その人たちを褒めては、祖母と私をけなすのだった。
私はうんざりしきっていた。もうたくさんだった。祖母には申し訳ないが、私は母のいない「外の世界」に逃げ出した。
夕食を家で取る日が少なくなった。当然母から嫌味、罵りを受ける。
私が反抗し、母に「文句を言うなら出ていけ」と言われればしめたものだった。
大手を振って友達の家に転がり込む良い理由となるのだから。
束の間の「自由」、でも「本物」の自由ではないことに目を背け、気になどしていないフリをし、友達と「青春」を謳歌したつもりになっていた。
by 毒親育ち mochi
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