母の毒っぷりの加速と、解毒、解放へのはじめの一歩

母の毒っぷりの加速と、解毒、解放へのはじめの一歩

母の毒っぷりの加速は「あの家」からだった

失敗だったと思う、引越し

私が10歳の頃、山間部の頂を開発した、新興住宅街に家を購入した。庭付き一戸建。(※中古住宅であることが後の結婚後の私への母の嫉妬に繋がることをちょとっこ覚えていてね※)

兄は中1、私は小3だった。学年のキリの良い新学期に、我が家は団地よりはるか田舎に居を構えた。

今思い返してもてもあれは失敗だったと思う。

街には、幼稚園〜中学は一校づつしかなく、生まれた頃から周りはみんな知り合い同士。高校も数が少なく、制服で学力がすぐバレる環境。

兄も私も母も、友達の輪に入ることにしくじったのだ

元々母はプライドが高く「なめられたくない」気持ちが隠せない人。私たちに対する地雷に敏感なのに、他者の地雷を易々と踏んでいく。それは子どもの私でも理解できるほどの「不躾」さ

母は友の輪に入れなかった「負け」を認めたくないがゆえ、「田舎はこれだから嫌だ」「閉鎖的でよそ者を受け入れない」と問題をすり替え、他者のせいにすることで均整を保とうとしたのだろう。

しかし本当はそうではないこと

認めたくはないが、母自身「解って」いたんだろうと思う。いくら途中から引っ越してきたとしても、友人でなくとも知人くらいできても良いはずだもの。

引っ越して変わったのは、団地の時には聞かされなかった、

愚痴、悪口、妬み、ひがみ、罵り、

を母が私に聞かせるようになった事。

そして、勉強も習い事も努力が足りない。なんでお前は努力をしない、なんでそんなに馬鹿なのか、周りはみんなできているのに、なぜお前はできない!

母の感情の振れ幅に合わせるように、時に髪が抜けるほど掴まれ、時に同級生の目の前で掃除機で殴られ、相変わらず竹の定規で叩かれる日々。

さらに最悪が重なったのは、

思春期に入り始めた兄が、中学校に馴染めなかったことだ。

今まで子供と思って母もたやすく殴る蹴る罵ると感情のままにやりたい放題だったが、体格も青年期に入りつつあった兄は、「馴染めなく惨めな感情」を、最初は自分の部屋のドアに、次第に椅子を振り上げ壁に叩きつけることを始めたのだ。

これは勝てないと察知した母は、兄へ「気を使い」つつも「叱咤」しては、返り討ちにあう事を繰り返し、「上手く息子(私の兄)をコントロール」できない苛立ちを私にさらにぶつけるようになっていく。

また、父も転換期だった

工場の「長」になり、現場の人との付き合いに苦労していたらしい。本社から来た人は無理を言うからかなわない、と野次られていたそうだ。

そこから先、父が再び転勤するまで、二度と触れたくない「暗黒時代」が延々と続くのだった。

人付き合いが相変わらずうまくなく、

子供を使って見栄をはりたい母。現実は家庭内暴力を起こす長男(私の兄)。

父に悩みを相談しているはずが、着地点はいつも「家庭を顧みない夫(私の父)のせいだ」とわめき責め罵る母。

少しの間、耐えるがすぐに怒鳴り返す父。怒鳴り合い罵り合う夫婦。父もまた、椅子を振り上げ、壁に大きな穴をあけた。

次第に雲行きが怪しくなり、予感は現実となり、かろうじて子供に向けてこなかった「怒りの感情」を私へと向けるようになった。

それこそ言いがかりばかりだ。トイレの電気を消し忘れた、呼んでもすぐに降りてこない、食が細い、成績が悪い、習い事の成果が出ない、

全ては「私が結果を出さない」から母が「みっともない」思いをする羽目になり「恥」をかかされるから、「俺(私の父)まで巻き添え」を喰らうのだと。

母が怒るのは、私が母の言うことを聞かないから、

なのだそうだ。おかしいなあ、結構頑張ってたよ私…

しかしそんな頑張りも虚しく、やがて父も私を殴るようになった

母が私を竹の定規で叩いていた時、父が「物で殴ったら痛みを感じないだろう!そんなことはしちゃいけない」(え?かばってくれるの?叩かれなくて済む?)

いやいや、口から出たのは「だから俺はちゃんと自分の手で殴る、ほらこうだ!」と言った。結局私は殴られるのだ。

それ以降、私は本能的危機感からなのか、

叩かれ殴られると「大声」で近所に知れ渡るように「叫ぶ」ようになった。

はじめはうまくいった。だが、次第に父母も「大声」で「怒鳴り返す」ようになった。

恐れた私は、「助けて!」「殺される」と叫びながら玄関を出ることにした。だがそれも通用しなくなり、立ち上がる前に、体のどこかを掴まれて外に出られないようにされた。

今でも、「怒られた」後、どうやって普通の日常に戻っていたのか、父母はどうやって私を外に出ないよう説き伏せたのか、「もやもや」した記憶はあるが、思い出そうとすると動機、手の震えがでてくる。

普通はそれを「パンドラの箱」に例えるのだろう。

後述するが、私の人生には、

正真正銘の「パンドラの箱」が存在したのだ。

パンドラの箱の最後には「希望」が残る。そう、その「希望=自立し私の人生を生きる」が今私の手の中にあるのだ。

毒親の元で育った私は、たとえ成人しようとも、家庭を持つ年齢に達しようとも、毒親から離れられず「罪悪感」にもがきながら苦しんでいた。

育ててもらった親に感謝するのが当たり前、「親孝行」で返すのが「当然」、それが「世間」というものだ。それをしない「お前はおかしい」そして娘がいても「何の役にも立たない」と言われ、心えぐられながら。

愛されたくて必死だった私は、

やがて思春期に入り、もうどうでもいい放っておいてくれ、と愛に期待をしないよう強がった。でも強がりは所詮強がりだ。本音はやはり「ありのままの私」を愛して欲しかった。

「役立たずの娘」だから「愛されない」と思い込まされて、「期待外れ」と罵られるたびに「罪悪感」でいっぱいになった、健気な過去の私。

今も「罪悪感」、これだけはまだ完全に手放すことに成功していない。

だが、私の場合は、

母が私の「パンドラの箱」を開けたのだ。

そして私の「心の奥にしまわれていた強烈なトラウマ」が姿を現した。

蓋を開けた母には何も残らなかったが、箱を所有していた私には「希望」が残された

蓋が開いたのは、タイミングだったのだろう。あくまでも母主体で、無理やりこじ開けられたのだ。

その頃には流石の私も、母はおかしいと認知はしていたから、情報を得ようと「毒になる親」を手に取ったのだろう。

おかしいと感じる「事柄」には「原因」がある。

私の場合はほぼ「母」が「原因」で起こる「事柄」だったのだ。

そこに気がつけて次のステップにすすめた。

まずは、「呪縛」に自分で気がつかなければ、「解放」「解毒」もできなかっただろう。

辛くて納得できない思いを抱え、悔し涙を流した日々も、到底納得できない「親子関係」も、うまくいかなかった今までの人生も、解放されるにはまずは自分がしっかりと気が付く事、からはじめるのだ。

握った拳を天に突き上げることなんて、いつだって可能なのだ。

人生に遅すぎる、なんてことはない

幼い頃から親の感情のはけぐちにされ、雑に扱われてきた「愛されない私」とさっさと別れて「楽して」生きるのだ。ああ、今日も自由だったな、と感じる、当たり前の権利を手に入れて生きるのだ。

大丈夫、いまからでも遅くない。

そうやって私は複雑に絡み合った感情の糸を、時間をかけ丁寧に解くことからはじめた。何事も、心から自分が信じたことしか人は動かないのだ。

信じて頼って生きるのは、心の軸がしっかりした「自分自身」。

これほど心強い相手はいない。いかなるときもそっと私に寄り添ってくれるのだから…

続きます。

by 毒親育ち mochi