無償の愛とは一体何だろう

無償の愛とは一体何だろう

無償の愛について考える

集合住宅に住んでいた頃

家は一階、ベランダから庭に降りれる階段がついていて、集合住宅の広場へ行き来ができる造りになっていた。兄が幼稚園に通い始め、母にもママ友が出来、遊び友達もできた。

私と双子コーデをしていたお友達も兄の幼稚園を通じて知り合った。

双子コーデのお友達

彼女はクオーター、大きな英国犬を飼い、映画のセットのような、花柄の壁紙、洋風の家具、洒落たティーカップ、穏やかなお父さん、優しく綺麗なお母さん、妹思いの兄、そうロマンティック舞台でね、

彼女自身、夢のように淡くふわふわと毛先がカールする茶色い髪を持っていて、色白で、とても可愛く、お友達思いの優しい少女だった。

今こうして書いていても、夢か幻の世界の話のよう。

母のなかの「洋風」コンプレックス

戦後生まれの母が小学生の頃、もう着物をきている少女はクラスでも数人だったそう。スカートとブラウスの少女が多く、着物しか持っていない母は「みじめ」だったと言っていた。

なかでも憧れていたのが、洋館に住む同級生だった。その時代には珍しく、クラシックを習い、いつも汚れのない「綺麗」な「洋服」を身につけていたそう。

丸襟にレースをあしらったリボン付きの白いブラウス、紺や赤の別珍やウールのスカート、レース付きの靴下に、黒のエナメルシューズ、そして髪には大きなリボン。

母が憧れた子供時代

そう、幼い頃の私のいでたちは、全て母の憧れを投影したものだった。クラシックを習わせたのもその影響だろう。

つくづく「母が憧れた子供時代」をなぞらされた私。家柄があるわけでもないのに「品格」というものに強く憧れる母に押し付けられる理想とは程遠く、平凡な私は叱られてばかりだった。

母の脳内での兄と私は、習い事も勉強もそつなくできるお上品なお子であるべきだった。

「環境を与えている」から「できて当たり前」、従って「親に感謝して当たり前」という理論。決して「落ちこぼれ」てはいけない。そんな設計図は母の中に存在しえなかった。

双子コーデのお友達は

母の憧れの具現化であり、母のコンプレックスをつく、ライバル心を掻き立てる存在でもあった。

私は、黒くて真っ直ぐな髪の毛に浅黒い肌、お友達とは正反対の容姿、

「〇〇ちゃん(双子コーデのお友達)はあなたと違って白い肌で、フワワした髪の毛だから、おリボンがよく似合っていいわ(ため息)」みたいなことはしょっちゅう言われてた。

もうこの時点で自分の容姿について薄々「残念」なんだな、と悟ってたよね(自己肯定感ってなぁに?)。

母と私は同じフィールドでは共存できない存在

母にとってに私は「いるのが当たり前」なのだろう。

だが、私にとっての母は、私を「傷つける」存在。

毒親に人生のほとんどを費やし、自分の気持ちをわかってもらいたくて、時に会話で時に手紙で、時に夫に代弁してもい、伝えてきたが、

どんなに私が、「母の気持ちを最大限汲み取るから、母も私を理解をしてほしい。そして共存ていこうよ」と声をあげても、残念ながら母の心に全く響かなかった

出てくる答えは「こんなにしてやったのに」「どれだけあんたに金をかけたと思ってるの」「感謝されたとしても責められる筋合いはない」だった。

挙げ句の果てには、希少がんになった娘に「自分の老後がなくった」と嘆く始末だ。

全くもって会話が成立しない、もはやモーゼの十戒だ、溝は深くなることはあっても埋まらない。

だから私は「理解」を求めることをやめた

できることなら「親からの無償の愛」を味わってみたかったなぁ。

そう思ったことは何度も何度も何度もある。

しかし洗脳から解放され、絶縁を宣言し、母の「愛」をあきらめてから、気がついたことがある。

「無償の愛」は、与える側も幸せになる

今までは求めるばかりで、与える幸せに目が向いていなかった。

そうなのだ、愛や絆とは「互いを思う」気持ちの積み重ねなのだ。そこには与えも求めもなく、ただただ純粋な「相手を思いやる気持ち」があるのだ。

そこに気がつけて本当によかった。

暗いトイレで箸を持ち恐怖と悲しみに暮れている幼い私を、もう昇華してあげる。

悲しかった私を、私が包んであげればいい。

負の連鎖を子どもたちにつなげてはいけない。

大人になるのも悪くない

うん、毒親の洗脳が解けて、絶縁宣言をしても、本音はのところは揺らぐし、罪悪感は苦しいし、やっぱり寂しい。

けれど、もう私の心をえぐる「言葉の暴力」を受けなくていい安心感が、揺らぐ私を留まらせてくれる。

大人とは、自分で付き合う相手を選んでいいのだ。

それを知ってみると、うん、大人って悪くない。

by 毒親育ちmochi