ギブ&テイクのシーソー

母はギブ&テイクが必須だった
共依存に浸かりきった母と私。(夢か現か幻か、共依存の救いのなさ)
理不尽な要求をされると今度は私が「癇癪」を起こすようになる。すると不思議なことに、母が私に「気を使う」ようになった。
物欲を巧みに操る母
大人しか来ない父方の親戚の集まり、アウェイで心細い母は、私を連れて参加したい。私は行きたくない。
すると物でつるようになったのだ。私の欲しがっている「洋服」「靴」「カバン」、どれも10代の子供が持つには一桁金額が違うものたち。
うっかり物欲に負け、「理不尽」を受け入れてしまったのが間違いだった。
それからの母は、以前にもまし「お金」で「罪悪感」をあおるようになった。「買ってあげたんだから、言うこと聞くのは当たり前」だと。それを聞かないなんて、あまりにも親を馬鹿にしていると。
しまった、欲にくらみ、
罠にひっかかってしまった。
愚かだが後の祭りだ。
母は「買ってあげる」といい、「強引に」「受け取らせる」ようになっていった。それこそ、ちらりと会話のなかでウィンドウの服を褒めただけ。それすらこっそり購入し、「喜んで!」と笑顔で渡すのだ。
「あげた」「見返り」の要求は、ますます大きなものへと成長し、最後はとうとう私が家を購入する「頭金の一部」にまで達するのは後の話。
なぜ断らないの?と普通は思うだろう
毒親を知っている方は想像つくだろうが、「断る」と後が大変。ネチネチと、娘が可愛いから買ってあげたのに、喜ぶ顔が見たかっただけなのに、と。
そして同じ口で、
恩を仇で返すなんて薄情な娘だ、
親を親とも思わないといつか痛い目に遭う、
あんたは私が死んでも涙なんて流さないんだろうね、
こんなんだったら産まなきゃ良かった、
あんたに習い事も学費もどれだけかけたと思ってるんだ、
そんなに気に入らないなら今までかけたお金を全額頭揃えて返せ、と喚くのだ。
すんなり受け取っておいた方が、「過去の私への文句」を聞かされなくて済む。
怒らせるといきなりお小遣をストップし、お弁当を用意せず、定期代を渡さない、バイト禁止だった学生時代にされた仕打ちのような事を受けないで済むから。
何より一番辛かったのは、
母が好きなのに憎いと思ってしまう私の目の前に、
憎々しげに呪詛を吐く母がいて、
でも従うのが正解と経験から知っているから、
飲み込もうとするが、それが出来ない自分がいたこと。
私は深く考えないよう、なるべく母の「イエスマン」に徹するようになる。そうすると母の機嫌が「持つ」から。
まるでシーソーのようなアンバランス感
怒鳴り合う日もあれば、仲良く買い物にいく日もある「共依存」の不自然な母娘関係は、シーソーのように、片方が地面に着きそうになると、慌てて均衡を保つように「気を使う」事で、バランスを保とうとしていた。
波風を立てない自立
暗黒時代よりは「マシなゆがみ」を抱えたまま、母の希望には届かなかったが、女子短大にはいった。
本当は服飾関係の専門学校に進学したかったが、専門学校は「大学じゃない」という学歴コンプの父母の猛反対にあい、叶うことなく、「面倒」にならぬよう推薦で行かれる女子短大へ進学し、母の知り合いの会社へ入社した。
自立も何もあったもんじゃない人生の選択。
でも「嫌嫌でも」「平和」を選ぶのが母との関係に波風を起こさなぬ「最善」の方法と思っていたから、仕方なし。
就職し、少し会社に慣れた頃、体が弱く入退院を繰り返していた祖母が亡くなった。好きな祖母だったから、できうる限り病院へ通った。
祖母と私は「心」が繋がっていた。病室のベッドの側で編み物をする私を、ニコニコと微笑んでいる祖母、優しい時間が流れていた。
初めて自分で決意した
私には彼氏がいた。後の夫となる人。
祖母は私の花嫁姿をみたいと、結婚を嬉しそうに私に勧めた。
私が夫にプロポーズをし婚約した後、祖母の体が年単位もつかどうかと言われた。
結婚式の日取りが決まり、場所を確保しほどなく、仲人さんをたて、祖母の好きな和食屋さんの二階をお借りし、結納をした。祖母がその店で食べたのはこの日が最後だった。
結納から1ヶ月ほどで、祖母は虹の橋を渡った。家族や孫たちに見送られ穏やかで眠るような別れだった。最期まで祖母は祖母らしく去った。
母の心が大きく揺らぐ
祖母を失った母は、私も結婚して家を出ることに恐怖に近い「猛烈な不安」に苛まれた。緩衝材である「私」が家からいなくなり、父と二人なるからだろう。
私は、祖母に告げた日にちに結婚式を挙げたかった。
祖母は「私がいなくなっても、天国からみているからね」と何度も私に告げていたから。その度に手を握り、大丈夫、結婚式一緒に参加しようね、と約束を交わしていたのだ。
何をどう伝えても、母は「喪中に結婚なんて非常識だ」「相手の親の気が知れない」など、ありとあらゆる罵詈雑言を叫び、なんとしても結婚を阻止したがった。
私は意思を押し通した
しかしここは譲れない、私の結婚なのだ。それに祖母とも約束したのだ。
これだけは無理。
私の意思の強さに根負けし、諦め許した母が、私をランチに誘った日がある。
心をえぐる鋭い言葉と澄み切った青空
最上階の見晴らしのいいレストラン、その日は雲ひとつない綺麗な青空だった。会話の前後は覚えていないが、母が私に言った。
親(祖母)をなくして、こんなにも辛く悲しかった時、あなたは私に何もしてくれなかった、娘がいたって何にも役に立たない事が、よーく分かった、と。
駄目だ、刹那心が千切れそうになる。こんなに素敵なレストランで、みんな笑顔で食事を楽しんでいる。
泣かないよう、声が震えないよう、
神経を集中させ、言葉をしぼり出した、「そっか、お母さん、ごめんなさい」と。
とっさ俯く、涙が、ぼたぼたナフキンに落ちる。ドット柄のように。
えぐられた、心を大きくえぐられた。
なぜそんな酷い言葉が言えるのだろう。
母も知っていたではないか。
毎週土日は祖母の病院に行っていた私を、
フルタイムでも、なるべく母の話を聞く時間を作っていた私を、
食後にココアを入れながら母の肩を揉んで癒し話し合い笑ったあの時間も、母の「ありがとう、娘がいてくれて本当に良かった」という言葉も、全て無かったと言うのか、
私が祖母を好きだったこと、母は知っていたではないか。
百か零でしか考えない母の感情
母の感情は常に白か黒でしかない。グレーなど存在しない。
そして母は傷つくことに極端に弱い。心の傷を自分一人で回復する力を持っていない。
母は心が回復するために、延々と「悲しい気持ち」を垂れ流し、次に「悲しさを理解しない」と泣き喚き、「相手を責め」「自分は悪くない」と着地させる。この一連の作業を行い、ようやく「気が晴れる」。
だから母が悲しい心が「百ならば」、目の前にいる私は「零」となる。
母の理屈で言うと、何もしなかった冷淡な娘、こんなにしてやっているのに、いざという時慰めにもならない零なのだと。ギブアンドテイクのシーソーが揺れる…
自分で決めて責任を持つ、それも愛なのだ
それでも私は結婚式を挙げた。夫は穏やかで気持ちのアップダウンのないフラットな人。好きだった祖母が結婚を勧めてくれて本当に良かった。
やはり、負は「負」を、愛は「愛」を増やすんだ。
どうせ増やすなら愛がいい。
自由でいたい。
by 毒親ちmochi
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