毒親と絶縁しても「母の日」付近はしんどい

前回の投稿で触れたが、
私は長年機能不全家族、認知の歪みの中で生きてきた。家族は残念ながら、毒母であり毒父であり毒兄だ。(よろしければこちらもどうぞ↓)
愛されていた、そう自分に魔法をかけていられるうちはそれでも幸せだったのだろう。少なくとも母にとっては。
だが、しょせんはまやかしだ。自我が芽生え、社会に出て、責任を負い、家庭を築く、
時が経つにつれ、何度
母に父に失望し、絶望しただろうか。兄にいたっては、絶望を越し嫌悪の記憶を私が鍵をかけていたから、論外。
自己を通せば潰される、親を立てては自我を殺す。責め叱ることはあっても、褒めるのは気分次第。
綺麗な食事や、海外旅行、
高価なプレゼント。嬉しかった。嬉しかったけれど、必ず見合う「お返し」、それも母の納得する方法で、
そうでなければ、与えたことさえ母にとっては「やらなければよかった後悔」の記憶へと書き換えられる。
だから、ほしくなかった。母の希望に答える自信がない豪華なプレゼントほど、尚更しんどかった。
ほしいのは安心感。
家でぐうたらしている姿さえ微笑んでくれる、その類の愛情。
決して「人に負けない」高価な品や旅行などではなく、家族が笑顔でいる、望みはだたそれだけだった。
振り返るからわかるのだ。
真っ只中では気づけなかった。
とにかく怒らないで私の話を最後までちゃんと聞いてほしかった。
なぜ私が親に敵意を持つのか、その根元を、理解して欲しかった。私、という一人の人間を、親子という甘い絆でまるっと受け止めて欲しかっただけなのだ。
実際、思春期で揺れ動く自分を必死に抑え、母の要求に答えようと頑張ったつもり。
なのに、なぜあれ程までに
私という人格を徹底的に叩きのめす言葉の数々を投げつけなくてはならなかった?
「言いすぎた、ごめんね。あなたが心配だから言ってるの。親じゃなければ誰もいってはくれないわよ」と泣いて謝る母の心はきっと壊れかけていたのだろう。
怒る時は徹底的に、それこそ私を憎み呪詛を吐く。気分のいい時は、いきなり予期せぬものを私に買い与え、ご満悦。そしてそれすらもまた、憎しみの感情の元になる。その繰り返し。
その結果が今。私は親の愛を諦め、私の家族を守る決意をした。
無傷ではないよ?
複雑性PTSDの症状で振り回される日もある、父の誕生日付近である、春は心身ともに体調が悪い。
そう、無傷ではない。今でも考える。父と母の気持ちをね。これはもう私が生きている限り背負う十字架なのかな。「血縁」を経つのは本当にきつい。
でも後悔はしていない。むしろ今の生活は大好き。
毒親育ちではない人には
理解できないだろうけれど、丸一日誰一人としてイライラする人がいない日があるんだよ、これすごいこと。
機能不全家族は、誰かがイライラしそれが伝播する。
だから空気は重く、巻き込まれるのを避け自室へ逃げる。家族団欒は「母ありき」。母の機嫌が良い日だけ。どこに母の地雷が埋まっているかわからない緊張。
私は長い間緊張して生きてきた、
だから脳も心も傷を負い、止どめが親との絶縁だ。フラッシュバックに悩まされる家庭って何なんだろうね。
私は今、安心感の中で暮らしている。この安寧を得るために、張り裂けそうな心に耐え母との、家庭との繋がりを切ったのだ。
「普通」でよかったんだー。豪華な愛情と酷く残酷な言葉と謝罪、母の感情に振り回され一喜一憂する私と決別したかった。
残りの時間を好きに生きたくなった。
もう自由に生きてもいいんじゃないか?
母に添えるよう頑張ってきたつもり。やり切った。だからもう家庭のことに振り回されるのはやめにした。
だって、希少がんだよ?早ければ2年って先生に言われたんだよ?
だからこそ本当は母に甘えたかった。
先を考えると「怖い」そう正直に打ち明けて、私の為に泣いてくれるような母だったなら。
でも代わりに、自由で気楽で楽しい人生を、安心してゴロゴロ出来る「普通」の幸せを手に入れた。
母の日が近づくと、ちょっとぐるり考えちゃう。
知ってた?「普通」の人は、両方手に入れることが可能なんだって。
毒親育ちの私には眩しすぎるぜ。
by 毒親育ちmochi
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