それでもまた依存先へ戻ってしまう

共依存の状態は厄介なもので
一緒にいるのは窮屈なのだが、離れるのも不安になる。
本当の意味で「独り」で人生を立っていないから、
父母の言う「困った時」に、助けてくれなかったらどうしよう…そんな呪詛に本気で怯えていた。私は母と精神が一体化し、母と私で一人の人間のようになっていた。母から離れるのは精神的に不安で怖くて出来ないと、心底思っていた。
激しい怒りの言葉の暴力を受けてきた経験から
毒母が怒った時は「早く・私から・仲直り」を申し出ないと、怒りが長引くことを身に染みて知っていた。
だから1週間も連絡を取り合わないと、不安感が増し、常に母のことを考え思考が止まる。
どうしようやっぱり私から電話して謝るべきかな、どうしよう好きなお花でも買って会いにいくべきかな、と…泣きそうな不安と「孤独感」に耐える自信がなく、オロオロしてしまう。
1度目の絶縁後の再会は
父から本を渡された数日後、と記憶している。
母から電話がかかってきた。
母は泣きながら「ひどいことを言ってしまった、許してほしい、以前のように会いたい」と言った。
私は心に暗い影を落としつつも、どこかホッとし「うん、ごめんね、私も言いすぎた」と答えた。
するとすかさず母は言った「でもね、あなたも悪いと思うのよ。」と。
2週間も離れることができない母娘関係。決して仲が良いからではなく、互いが一人で立っていられないから、ただそれだけの関係だった。
ゆがんでいるのはわかっている
本当は私の気持ちを話し、理解してもらえたら良いのだろう。
もうそれは何度も試みた。結果は惨敗だった。
あとは距離を置くしかきっと方法はないのだろう。
「一人じゃ何もできない」「親がそばにいるあなたは恵まれている」と繰り返し繰り返し聞いて育った私は、すっかりその言葉を信じ込んでいたのだった。
「親の近くにいるのが一番だ」とね。
現在の私からすると
本当「何を馬鹿なことを信じてたのだ」と笑いたい気分だけど、
当時は母の側を離れるのが怖かった。
なぜあんなにも嫌なのに離れられなかったのか。
洗脳とは恐ろしい。
論理的な思考を奪う。
しかし、本能的危機感が、違和感が、
「考えろ」と私に伝えてくる。冷静に、考えて、何が大切?、と
その後母が噴火するたび、距離を置く間隔が少しずつ伸びていった。
1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月、半年、と、徐々に噴火のたび会わない時間が多くなったことが、結果的に私に自信を与えてくれた。「大丈夫かも」「母なしでやっていけるのでは」と。
数回目の「噴火」「絶縁宣言」「仲直り」、そう、私がアラサーの頃。
母が私の「パンドラの箱」を無理やり
何の準備もないままの私の心の扉を、強引にこじ開けたのだ。
そこからの約5年ほどは、トラウマに苛まれ、心折れそうになりながら、ボロボロになりながら、心身共に、心が固まっていった。
「母は間違っている」「これは親のすることではない」。
私の心が決まる頃、またしても私の人生に試練がやってくる。
そう、希少がんの告知
もちろんその話も綴っていくが、つくづく思い返しても「優しさ」とは何だろう、「愛」とは「絆」とは。いろいろ考えさせられる出来事がここから先、続いていく。
やっと今は、自由で
心配なことは家族の事と、大切な人たちと、そして私の病気のこと。
病気(自分の事)以外で、幸せでいてほしいと願う人が、私の人生に居てくれることが幸せ。
心配の裏返しは愛情なのだと思っている。
嬉しいな。
by 毒親育ちmochi
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