がんと知り家族の未来を考えた先が「絶縁」だった

がんと知り家族の未来を考えた先が「絶縁」だった

自分が生きている「今」が

来年も等しくやってくると「病気を疑わず」生きていられたのは、がん告知を受けた日までだった。

人生とはきっと、そういうもで、いつだって前触れもなく、まさかは「突然」にやってくる。

知っていたけれど、こんなに思ったより早くやってくるとは、思ってもみなかった。(よろしければ、こちらもご覧ください↓)

毒親とアスベスト、私の心身を浸していく「毒」

あの日以降の私は、死ぬ気になって、

残していくであろう子供のことを、それこそ焦りながら、考えることになる。

生きる?人生を最期まで生き切る??どうしたらできるのだろう

2012年4月12日、がん告知を受けた時、初めは「絶望」「悲しみ」「恐怖」の感情。

その後約2ヶ月、悪性腹膜中皮腫という希少がん、この病気について躍起になり検索をしていた時は「怖い」「焦り」「別れの辛さ」の感情。

最初「中皮腫」に絞り検索をしていたが、

初めて聞く医療用語が、たくさんあった。予後、寛解、奏功率、抗がん剤について、知らない事が多かった。

がんの種類、予後が悪いがんという言葉、奇跡的に長く生きておられる方もいれば、初期のがんでも、亡くなる方もいる。

それすら、さらり程度の浅い知識しかなかった。がん患者の方のブログを通じ、初めて知った事が実に多かった。

初期のがんなら助かる。

がんは今や死ぬ病ではない。そう思っていた。

抗がん剤で悪性腫瘍を抑えながら、共存している方がいることも、初期のがんだが、進行が早い場合があることも、

ブログを閉じられる方もいれば、結婚出産する方、末期と告げられたが、寛解された方。

奇跡も悲しみも、片手の中で学ぶ時代。

生の声、知る事ができる時代で、よかった。

私は知りたかった。奇跡だけではなく、私が辿るであろう可能性の高い未来を。最悪を考え、逆算して「今家族のために」「私が」できること

がんの種類も様々なら、辿る道も様々で、早期発見でよかったね、などと軽々しく言ってはいけない事も知った。

それこそ、卵巣嚢腫の時、

良性・悪性・境界型、があり、良性以外は、抗がん剤治療が必要なこと、これさえも知らなかった。

子宮筋腫、子宮内膜症、卵巣嚢腫、手術した人を数人知ってはいたが、一人を除き、みな良性だった、

私が相談しなければ、彼女も抗がん剤治療について、私と話す機会はなかったと思う。

約半世紀生きてくれば

信じられない「悲しい現実」に遭遇することは経験済みだが、

自分の体内に悪性腫瘍(癌)があると知り、老若男女、不平等なまでに「厳しい現実」があり、そして予後についても、全く違う事を知った。

本当に、本当に、早期発見ならば

「みな等しく」「助かる」ものだと思っていた

知らなかった。早期だろうが、ステージ4だろうが、がんの種類、部位、抗がん剤の効き、手術の結果、複雑で予測がつかないだなんて

だから、私は死ぬ気で考えた

残すであろう、子供の未来を。

相談したり、頼りたくなった時のために、私が先回りして用意してあげられることは何だろう、と。

難しいがんで「残す側」として、

綴っていた方ブログ。ある日健診で、ご主人が「がん」とわかり、ご自身も闘病しながら、看病する日々の記録の更新で、ご主人がお亡くなりになられた事を知った。

その方の綴る文章は、聡明で、先を見据え常に子供の「未来」を予測し、今を懸命に生きていて、いろんな気づきを私に与えてくれていた。

だからこそ、ショックだった

忘れていた、そうだ「私」だけが「先」だとは、決まっていない

夫、子供①、子供②、それこそ「等しく」やってくる「まさか」がありうる事を。

私は「今現在」悔いのない時間を積み重ねる事が、最善策だと、諦観するしかないと悟った。

きっとどんなに「悔いのない」ように生きたとしたって、絶対に「後悔」しないなんて事はあり得ない。

だからといって、何もせず、納得のいかない「今」を生きるのは、もっと後悔をする。

「悪性腹膜中皮腫」という「希少がん」の告知

これが私が両親と兄を、毒親であり、毒父・毒母・毒兄、ときちんと「認識」し、解決しなくては、私が「自立」できない

「私自身」の問題だ、とやっと重い腰をあげ、向き合うことになったんだろう。

そうしないと、夫と私の「先」の順番によって、子供たちの未来がとんでもないことになる。

先ずは、夫・私・子供①・子供②

この4人の「家族」の土台を、両親の「ご機嫌」を取っ払い、再度、基礎工事が必要

土台がしっかりすれば、後は4人それぞれの「軸」をきちんと、ぐらつかないよう、基礎を組む。そうだ、それから始めよう。

再構築をはじめたら

子供たちの顔つきがかわった。未来を考え、想像する幅が広がった。4人の会話が増えた。結果、安心と幸せと楽しさが育った。

やっぱり、パンドラの箱の最後に「希望」が残ったんだ。本当だったんだ。

がんでなければ、もしかしたら、

今でも毒母の顔色を伺いながら、生活をしていたかもしれない。

「ともに仲良く生きる」事が「出来ない」と、「決別」を決意し「絶縁」した今となっては、あり得ないけれど

「きっかけ」がなければ、共依存のままだった可能性も十分考えられる未来だ。

「絶縁」して「自由」になった。明らかに気持ちが軽く、毎日が楽しい。

しかし、余命を言われなければ、

怖くて離れなかったかもしれないって、一体どう育てたら、子供の気持ちを「縛り付けて」「離さない」事が可能なんだ?

気がついて、俯瞰で見る事ができるようになった今、どう考えても、「おーい、それ絶対、子供が逃げちゃうやつ」って、思うけど(笑)。

先のことなんて誰にもわからない

心細くなると、心の中でつぶやき、不安な「私」を落ち着かせる。moch一家の基礎はがっちりしたから、もう大丈夫、と。

子供たちの「軸」がぐらついていない実感がある。だから粛々と「愛」を注げるだげ注ぐんだ、それがきっと未来に「支え」となる日がくる、そう信じている。

そうだ、先のことなんて誰にも予想不可能。私は私なりの美学を持って、ひらりと現実と関わり、毎日「今日」を生き切りたい、それが目標だ。

by 毒親育ち mochi