毒親と決別を決めた日

毒親と決別を決めた日

長い間、自己を否定され続けてきた私は

何をするにも心の物差しが全て「母」だった。普通の家庭に育った人には到底理解できないであろう。

アラフォーの、もう立派な大人が、服1枚選ぶのにさえ「母が気に入りそう」な服を探してしまうのだ。

なぜそうなるのか、答えは簡単、「母の物差し」からはみ出たものを身に纏っていると、必ず「あら、珍しいわね、でもその色あなたに似合わないわよ」と恐ろしく出来の良い精度で返ってくるのが嫌だからだ。

自分が「嫌」な思いをしたくないから

欲しいと思う服を買わない、滑稽を通り越し、もはや哀れだ。

毒親育ちの人なら、大なり小なり「親の物差し」を無理やり肌身離さず持たされ続けているんじゃないかな。

親の価値観を押し付けられ、親の望む容器の形に収まるよう、年月をかけ、飴と鞭(恐怖と情)で、洗脳され続る。

この「容器」から抜け出すのは心底恐怖なのだ

「親離れ」などと言う前向きな未来のある響きなどではなく、

子どもが巣立とうとすると、右手を振りあたかも応援するフリをし、なんなら優雅に右手を振る素振りだって披露るすだろう。

しかし左手で、血が出そうなほど子どもの足首を掴みながら…

幾度となく、脱出を試みた。

その度に「理解のあるフリ」を見せつつ、絶対毒親の目の届かない「知らない世界」へ旅立ってはならないのだ、それが出来ないのなら親子の縁を切る覚悟をしろ、

そして、優しく理解のある親の顔をし、

「自由」と「親」どちらかを選べ

そう迫るのだった。

万が一にも「自由」を選べば、お前が「困った」時に助けなどしないぞ、と問うてくるのだ。

本当は子どもが親たちから離れてしまう「恐怖」に怯えていたのに気がつかず。

独りが怖いのは、私ではなく、毒親自身だったのに。

「血縁」で縛る以外、子どもを縛る理由がない

こんな理不尽に、自分の人生を絡めとられるなんて馬鹿みたいだ。

悪性腹膜中皮腫(希少がん)と宣告された時

家族と私、残された時間、残される側、残す側、今まで当たり前に過ぎていた時間に、心底後悔をした。

どんなに周りの人が寄り添ってくれても、どんなに私に愛を注いでくれても、残された人々が自身で心の痛みを乗り越える以外方法がないのと同様、

私もまた、一人で病気と向き合って、受け止めなければならないのだ。誰も私の人生を代わってはくれない。

だからかな、本気で気がついたのだ、

都合よく雑に扱ってきた毒親を大切にし

私を大切に扱ってくれる人たちとの時間を削ることの愚かさに。

約半世紀、一体私は誰のために生きてきたのか?

なぜここまで尽しても親は私の心をえぐるのか?

ようやく、決別する勇気が湧いた。

私に残された時間が沢山あるのか、それとも一年なのか。

明日何が起こるかさえ、予測などできないのだ。そしてそれは私だけではなく、等しく平等に、全ての人が1分先さえ読めないのだ、無駄にしてはいけない、ようやく目覚めたのだ。

子どもは3歳までに全ての親孝行を終える

だから子どもに親孝行を求めてはいけない、と友人の母から教わった。

本当だった。こんなにも愛される事があるなんて、思いもよらなかった。

怒られているのに、怒っている目の前の母親に慰めてほしくて、小さな手を伸ばす可愛い命。沢山の愛を惜しみなく届け続けてくれた愛おしい命。

やがて一人で学校に通う年齢になった。

朝どんなに喧嘩をしても「笑顔」で送り出すこと。これは、入学式で校長先生に教わった。それが最期の別れにならないとは限らない、だから必ず笑顔で、後悔しないように、と。その言葉は、母のきつい言葉に涙を堪え玄関を出た「小さな私」を思い出した。

今も心掛けている「いってらっしゃい♡」と、笑顔。本当に大切な学びだ。

本来子育てとは家族皆で「愛」を育てるものなのだ

いつもお下がりがまわってくる子ども②に、新品の自転車を購入したある日。

好きなのを選んでいいよとと伝えたら、真剣に店員さんと相談し、迷いに迷い決めた子ども②。帰り道「ありがとう」と嬉しそうに自転車を押し、2人並んで歩いた。

「乗って先に帰ったら?気持ちいいんじゃない?」「え、でも一人で歩くのさみしくない?」と可愛らしい言葉をポンとくれる。

嬉しくてニヤついてしまった( ´艸`) 。

「いいよ!せっかくだから乗って先におかえりよ」と言った私。

今でも覚えているよ、大切な気持ち

嬉しそうに颯爽と走り、器用に両手をあげ背中越しに手を振った子ども②の姿。

不覚にも、幸せすぎて泣いてしまった。

ありがとう、本当にそれ以外言葉が浮かばない。満足そうな笑顔が、私に幸せをくれる。

幸せすぎて泣いちゃう私って本当に幸せだ。

大切な人の幸せな姿。ありえない幸福感。

生きているその時間は、全力で好きな人たちの幸せを応援したい。愛してくれ大切にしてくれた人たちに、私が生きている間、できうる限り、拙い私の愛を送りたい。

だから私は父母と別れる、それ以外に私を幸せにしてあげる方法が、もう無かったのだ。

本当は、みんなで幸せを増やしたかったけど、残念だけどそれができない人がいるのも事実。

愛と情を一緒にしてはいけない。愛は増えるが、情は縛るのだ。

本当に私を大切と思っている、と言うのなら、なぜ寄り添ってくれなかったのか。

なぜ母の気持ちばかり私に押し付けてきたのか、なぜ私は母に尽くさなければいけないのか、そして的確に心をえぐる言葉を浴び続けなければいけないのか、

絶縁宣言をしたのは、私のお誕生日の日

希少がん(悪性腹膜中皮腫)と宣告されてから、5回目のお誕生日。

生きていなかったかもしれない5年という歳月。

その日、母は苛ついていた。

食器の音を立て、怒りの圧を食卓にかけた。

食事を終えても、一言も「おめでとう」を言わず。

ふと子ども①が私の手を取った、「帰ろう」と。

子ども①の横顔は怒りに震えていた。不覚にも涙がボトボトこぼれ落ちた。

母はどうしていつもこうなのだろう。

大切な節目、楽しみにしていたディズニーランド、絶対に「楽しい日」と決まっているに日限って、機嫌が悪い。

泣いてる私、子どもたちが優しく手を繋いで我が家へと連れ帰ってくれる。

ああ、もうこんな思いを子どもたちにさせてはいけない。

その日の夜、電話もスマホも着信拒否をし一切の連絡を断つ決意を固めた

揺らがない自信があった。

今回の絶縁は、過去の甘っちょろいものとは全く違う、

私と私の大切な人を傷つける毒親から私が守る、

きっぱり別れを決意した。

by 毒親育ちmochi