毒親との関係に答えを出すのは難しい

自分が今いる環境に不安や不満、
怒りや悲しみ、理不尽や違和感、解放を願っても、実行出来ない人もいるだろう。
理由は千差万別だろうし、解決を望む望まないも人それぞれ。望む形は自分で決めればいい。
10年ほど前パンドラの箱が開いた時、
薄々毒親と感じていたが、両親だけではなく、兄すらも「毒」だったと知った。(よろしければこちらをご覧ください↓)
約7年前に、悪性腹膜中皮腫(希少がん)とわかった時、毒親から離れたかった本心に蓋をし、毒親との関係を続けようと思った。
理由は、子供たち。まだ「母」が必要な年齢だと思った。
私が死んだら、夫はますます頑張って仕事をしなくてはならないだろう、
子供たちが夫の帰りを待つ夜を想像した時、祖父母の家にいるのが安全だと思った。
母に言われた
「子供が小さい時は散々こき使って預けてたのに、手が必要なくなったら用無し、なんて都合のいい考えなんだろうねぇ」と。
うん、確かにそうだ。母の言うことは正しい。
子育てを一緒にしてくれた。たくさん孫を可愛がってくれた、預かってもらって出かけたことも度々だ。
旅行も、ランドセルや、節目の写真館での家族写真だって、品だけでなく「愛」を私にも子供たちにも注いでくれた。
今でも感謝しているし、嬉しかった気持ちは嘘じゃない。
絶縁をしたからといって、それらの記憶が書き換えられる事なく、愛を受けた記憶も薄れず、今も感謝の気持ちは心に持っている。
だからこそ、辛いのだ。
愛してるのに、一緒にいると心えぐられる。愛しているけど会いたくない。
この相反する感情を、私が生きている限り何度も逡巡し持て余すのだろうと思う。
自分勝手な私は、子供が進路を決断する節目を超えたと感じた頃に、改めて母との付き合い方に疑問を持ってしまった。
このまま誰にも病気を告げることが許されない。
それは入院したとしても両親以外お見舞いに来てもらえない事を意味する、そして同病の人と悩みを共有することも訪れないのだ。
両親に感謝しているからこそ、
悶々と悩み、時に激しくぶつかり喧嘩をしては、疎遠、そして再会。この繰り返しを何度もしたのだ。
どうしても「裏切る」「罪悪感」が決意を鈍らせる。
一緒にいて辛い日々ばかりではないから。楽しさを共有し、幸せだと感じる日だって確実に存在したから。
これだけの「愛」を注いでもらい、
子供たちも愛し大切にしてくれているのだ。「たま」の癇癪くらい、「我慢」しなければそれこそバチが当たるのは私だと思っていた。
でも3年前、どうしても無理と、心身が激しく両親を拒否した。そう、複雑性PTSDの発作の前兆。
それ以降、毒親ではなく「親」だと、飲み込み受け入れ生きていくには、どうにもこうにも心身が拒絶する。
親を「毒親」と判定し
絶縁をする、それは今まで育ててもらった恩を仇で返す事。
私はわがままなのだろうか?何度も何度も自問自答を繰り返す。
しかし答えは「拒絶」一択、今後一緒に家族として何事もなかったかのように笑顔で会う事は、兄に関する過去を思い出してしまった以上、絶対にできない。
覚悟の絶縁、それは本当。
絶縁に至ったのは心身の激しい拒絶。そう、父に母に兄に「会う」それを考えただけで、身動きが取れず発作の前兆が起こる。
もはや無理なのだ。そう答えが出た、というより絶縁以外、私に道が残されていなかった。
もしパンドラの箱が開かなければ、もし癌に罹患しなければ、もし子供たちがまだ幼ければ、もし両親の介護の途中だったら、
たくさんの「もし」、
心身が拒絶しても絶縁できず絶望の中暮らしていた可能性、絶縁まで辿りつかず世を去っていた可能性、
それらも全て「もしも」の話だ。
物事を決める時、急がなくていいと思っている。親との縁など、簡単に答えの出る問題ではないのだ。
一旦疎遠になったことが幸いし、再び笑顔で会える家庭もある。
私の場合は、疎遠くらいでは親が納得せず押しかけてくる、
だから傷つける事がわかっていても「絶縁」を宣言をしたのだ。
それだって、もし母が
兄抜きで父の傘寿の祝いを行うことを了承していたら、今だって縁は繋がっていたかもしれない。
それだって仮定の話。
私の家庭はそうじゃなかった、だから私はあの日「限界」を超えた事がわかり、縁を切る、そう答えを出したのだ。
この先いつまで
生きるかわからない自分の時間、有限な時間をこれ以上母の顔色を伺う生活に費やすのはもう無理と心身が訴えたから自然と答えが出ただけの話。
絶縁を決断するに至るまで、癌とわかってから更に5年かかっている。毒親とわかっても、成人しても娘であるのだ、
母がイライラしないでくれたら、同性として理解を示してくれたら、絶縁しなかったかもしれない、縁が繋がっていた可能性。
母へ期待を持ち続ける限り、我慢をし、それでも尚心えぐられる言葉に耐え、母と向き合わなくてはならない。
3年前のあの日の会話がなければ
絶縁できなかったとも思う、それより以前に決断するのは出来なかったんじゃないかと。
やはり何事も、決めるのは自分。
人に相談したりアドバイスをもらったり悩み考え、それでも最終的に決断するのは自分なのだ。
だから「迷っている時」は「決断の時」ではない。答えが出ない時は「心が決まっていない」から。
焦っても焦らなくても、答えが出る時は不思議とするりと出る。
縁を切る、親と疎遠等、ちょっと考えて決められるようなレベルの決断ではないのだ、迷って当たり前。
大事なのは自分の心身、
これが壊れてしまったらもはや自分でいられない。
遠回りをしてしまったが、それでも私はこの生き方以外選ぶことはできなかったのだろう。
両親を傷つける結果となった事、それは今でも心が痛む。寂しい思いをしているだろう、想像すると泣きたくなる。
でも復縁は、私の崩壊を意味するからやはり不可能。
親を傷つけてまで自分を優先したのだ、
親からすればとんでもない裏切りだろう、その重みは理解しているつもり。
だからこそ親に一切の迷惑をかけない事。たとえ親を恋しくなったとしても、最期になってやっぱり親に会いたくなったとしても、
それ相応の決断をしたのだ、私が迷い親元へ戻ることは決してしてはならない。それは再び親を傷つける事になる。
だから答えを出すのは「心が決まった」時。そうでないと、自分も周りも惑わせ傷つけてしまうから。
救いがあるとしたら、絶縁を決断した過去を、
「罪悪感」を持ってはいても「後悔」はしていない事。
by 毒親育ち mochi
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