毒親だが確かに母は私の母親である

絶縁をする、すなわち
自分が育った家庭から一人抜け出し生きていく決意。人生何が起きるかわからない、何か困った時に頼る先が無いことも覚悟しなくてはならない。
毒親である母から幾度も言われた台詞が私を壊れた家庭に留まらせ続けた。
あんたは友達を大事にするけど、じゃあその友達が一体あんたに何をしてくれるっていうの?
あんたがお金に困った時貸してくれるの?万が一貸してくれる友達がいるからって借りたらそこで友達関係はおしまいなんだからね。
困った時、親身になって
本当に助けれくれるのは親兄弟しかいない、だから親に感謝しなくちゃいけない。なのにあんたにはその気持ちが欠けている。
この「本当に助けてくれるのは親兄弟以外いない」とう言葉は、母の思惑通りに私の心に刺さり、絶縁=助けてくれる人が皆無と漠然と信じていて、それが怖く絶縁する勇気が出せなかった。
せめて距離をとってくれる母
だったら何とかやれていたかもしれないが、母はとにかく私と一緒にいたがる、どのくらいかっていうと「毎日ように」
ランチに誘われ夕飯の買い物も一緒に済ませ、各々の家に戻り再び夕飯に実家に子供と一緒に行く、これががん発覚後はほぼ毎晩。
理由は私が死んだ時を想定した話、急に実家にくるようになっても懐かないから頼りたいなら毎晩来なさい、だった。(よろしければこちらもどうぞ↓)
これはその後、せめてご飯代くらい協力してあげている優しい母へとシナリオは変化していたけれど。
実家ときっぱり縁を切る事、
これは不可能な事と刷り込まれて生きてきた。飼い主に食住を与えてもらっていた動物が急に野に放たれても一人で餌も取れない事と同様の恐怖を植え付けられていた。
おかしいよね、働いていたのにね
不思議だよね、結婚したのにね
夫が安定した場所を用意してくれていたのに、なぜか私は「夫だけ」では不安で、母もいないと無理だと思い込んでいた。
母の洗脳のなせる技、完全な共依存関係。
父親を病で亡くし
母親も病で亡くし、高校卒業してから一人で生きている友達がいる。昔から、すごいな、私にそんな生きる力は備わってないと尊敬している友。今は離婚しシングルマザーとして子供を育てている。
彼女は、親がいなくても保証とかはお金払えば頼めたりするよ?しんどいなら楽になったらいいんだよ、大丈夫生きていかれる、そう何度も「大丈夫」と教えてもらっていたのだけど、勇気もなければ自信もなかった。
親と縁を切ったらダメだ、呪いのように心に刻印されていた言葉。
でも考えてみたら、
病気になったら自分で治療費を払うわけだし、子供にかかる費用も私たち夫婦が払うわけだし、家のローンも然り、うーん困った時かぁ。
もし私が2014年頃(余命を過ぎたあたり)、不在と仮定した場合、なんとなく子供たちは母の予定していた「養子になる」事に反対し、「実家に住む」事に異論を唱え、多少の不便があってもマンションに住み続けていた気がする。
子供達は祖母を頼らなかった気がするなぁ。
やっぱり困った時に頼れる相手は
母ではなかった。悲しいけれど事実。
母が何も言わずに助けてくれる事は無いからね、
だから私が複雑性PTSDで治療をしてる事も「認めない」わけだし、何なら悪性腹膜中皮腫(希少がん)の検査結果も3年半以上母は知らないし、聞いてこない。
もちろん援助してもらった事は
沢山ある。感謝しているからこそ不義理を働かぬよう「お墓参り」も「家族旅行」も、その他もろもろ母の喜ぶイベントに、私たち家族の休みを返上し捧げてきたんだ。
機嫌の良い時は「あなた達がいてくれておばあちゃん幸せよ」、
不機嫌だと「あんだけしてあげてるんだから、付き合うのが当たり前、あんた達少しは自分が払う気持ちないの?」だ。
細かい事でごめん、ガソリン代・高速代・お花代・スイーツ代、これが精一杯だよー。だって母の行きたいお店ちょっとお高いんだもん、むりむり。
母は、子供が大事、娘がいてよかった、
あなたと孫のためなら何でもしてあげる、子供の幸せが親の幸せ、機嫌の良い時言っていた。
だから私は母は「瞬間湯沸かし器のような性格」だから不機嫌な時もあるけれど、「機嫌の良い時」の台詞も真実だと思っていた節がある。
いや違うな、これ
と薄々気がつき始めたのは子供①誕生後の「抱き癖」という言葉。
私はいっぱい抱っこしたかったし、実際可愛くて可愛くて「私が」抱っこ星人だった。
母がね、あんまり抱き癖付けないで、私に懐かなくなると困るからって。
お義母さんは「私が」手が離せなくなるから「大変」でしょ?
お母さんは「私以外」抱っこを拒否したら「祖母(実母)」が困るでしょ?
「やっぱり母はへん」お義母さんも同じ言葉を使ったけど、この違い、似てるようで違うからね。
妊娠中不安だらけだった
毒親あるある、母のような母親になるのが怖いからマタニティブルーになり母親になるのが不安でしかなかった。
考えすぎる私の性格がね…1日10回もおむつかえて授乳させるんだ?!これだけでも毎日こなせると思えなかったし、
ケアの手順や洋服を分けて洗うとか、これら1日をシミュレートをしては青ざめていた、できるんだろうかと。
ところが、はろーとこの世に顔を見せてくれた子供①は、びっくりするほど愛おしくて小ちゃくて可愛くて「たーまーらーーーーん」だった。
おむつ?はい!喜んで!!
授乳?私で良ければ喜んで!だった(笑)
出産後、他の人に触らせたくない本能が私も芽生え、何をしてても可愛くて至近距離で見たいから必然と抱っこ♡
寝たかなー、可愛いなぁ、抱っこ♡であった。
子供①が抱っこを求めていて、私もウェルカムなら抱っこし放題で何が悪かろう???
だが母は「娘以外NOな孫」では自分の出番が少なくなるから嫌だった。
そう、過去から現在を
思い返してみようか
お稽古ごと、進路、就職先、住宅購入場所、希望通りとはいかないけれど最低限母がブチ切れない範囲内を選んできた。
そして母は常に「自分の気持ちを最優先」して私に指示をする。
だからがんという、母が抗えない現実に直面した時「私の老後がなくなったのね」「私も自分の老後を諦めるから、あなたも頑張って」と、
ありえない本音が真っ先に口をつき(本当に泣きたいのは私)、悲しみに暮れ涙ながら励ましたのだ。
だからさ母の事を気にして
我慢した過去は、結局のところ無意味だったんだよな、って話。
だって本当に困った時、これは間違いなく私が死んだ後の子供達の事、母親である母ならわかるであろう娘の気持ち、私なら
「大丈夫、死なないから大丈夫、でも万が一があったとして心配しないで。パパ(夫)と協力して、孫達を育てるから安心して治療に専念して」
こんな感じの事を言っただろうな。そして実際娘が育てていたようにしてあげたいと心の底から思ったはず。
子供①が寮に入っただけで、困ってないかな、授業に専念できるように不便を取り除いてあげたいな、そう思ってソワソワするのが親だもん。
母は確かに私の母親である、
戸籍上も血縁も。
だけど母は「親」になった時に「自分」を譲り親という立ち位置にスライドすることができない強い自我を持ち続けたまま今日に至るのだろう。自分の何が相手を傷つけたのか、それすら理解できぬまま。
血の繋がりと戸籍だけの縁だから
それが理解できたから私は大丈夫
良心の呵責も罪悪感も気にならない
あるとしたら面倒に巻き込まれたくない
そんなドライな気持ちだけ
by毒親育ちmochi
-
前の記事
着歴2件だけで不安を呼ぶ黒い痛み 2020.07.07
-
次の記事
珍しく父の毒を思い出した夜 2020.07.11
ぽちぽちっと♡励みになります
SNS
