散々してやった[毒母]vs一つだけ残した[私]

散々してやった[毒母]vs一つだけ残した[私]

母はよく人間死ぬ気になったら

なんでもできる、と口癖のように言っていた。それは主に、子供が死を選択したニュースに触れる時である。

私はつい反論してしまう「死を選ぶ方が楽だと思うほど現実が辛い人も世の中にいるんだよ?」と。

母はきっとタフネスなんだろう、そんな事で死ぬくらいだった他にやれる事があるはずだ、と言い切るのだ。

たまに「病気を苦に心中」

というニュースを聞き子供だった私は、お母さんが子供を巻き込むほどの病気の苦しみがピンとこなかった。

癌と言われてその気持ちが想像できた。子供の年齢や環境や病状、遺す事が可哀想になる「ショックな結果」を聞かされたのかな、と。

少なくとも祖父母と同居する

までの私は、転校生として学校に溶け込むのに必死で、でも習い事で放課後遊べなくて、家に帰るのがいつも気が重かった。

母が習わせたくてはじめたお稽古ごとがいつの間にか「私がやりたい」とはじめた設定にすりかわり、やめたくても辞めさせてもらえなかったお稽古ごと。

当然上達せず先生に叱られ、家に戻ると母に叩き蹴られ泣かれ、私はどうすればよかったのだろう。

習い事を続けるほど、

自己肯定感を否定されていく。お前はだめだ、お前は下手だ、よくこんな腕前で発表会に出れるな、そうヒステリックに責め立てる母

絶縁する直前まで「あんなに色々してあげたのに一つも物にならなかったわね」と言った母。

うーん。一つは物になったよ、パンドラの箱に残った「希望」が私の手に入ったから。(よろしければこちらもどうぞ↓)

パンドラの箱の中身が開いた、あの日

母が「散々してやった」

なかで「もの」になった事。これは母を反面教師に私の家族と心で繋がる事ができた事だな。

母からしたら皮肉だろうし、こんな事言ったら血圧上がって倒れちゃいそうだね(笑)。

でもね、新しい家が立ち並ぶ新興住宅街の「あの家」で、私は「逃げられない暴力」や「信じてもらえない事」を学んだの。

ただいまと扉を開ける時の

やるせなさ、とぼとぼリビングへ向かい今日の母の機嫌を恐る恐る確かめて、イラついてる日の絶望感わかる?

怒られたくない、叩かれたくない、責められたくない、そう思って過ごした小学生時代、父も兄も私の敵であり味方じゃなかった。

そんな時やっぱり思ってたよね、生きてても意味ないじゃんって。楽しい事何もないって。

せっかく学校で仲良くなっても

放課後遊べなくて、そのうち仲良しグループ内での温度差が生まれるんだよ?

友達の中で私だけか放課後体験できなかった話を、楽しそうにうなずく寂しい気持ち理解できる?

しかもやりたくない母の決めた習い事だなんてさ、死ぬほど辞めたかった。でも父を使って殴ってまでやめさせてくれなかったよね。あの執着は何だったんだろうね。

学校と習い事と宿題とドリル、

日曜日も友達と遊びに行くことは許されず家族で過ごす最低な休日

理系の父に「勉強を教えてもらいなさい」と母がいう日曜日など、一体どこの子供が喜ぶんだ?

兄と私が二人テーブルに並び対面に父が座る。

小学生の私に方程式を使って解かせようとするから、学校でまだ習っていないと異論を唱えると「いずれ習うんだ、先取りして何が悪い、つべこべいうな、頭が悪いくせして」とゲンコツを喰らう

兄はきっと想像よりできないのだろう、毎回流血のフルボッコだった。

毎週毎週、血みどろになる

「父による勉強会」に何の意味があったのだろう?

父が勉強が得意なことを披露する場だったのかしら???

子供ながらに生きてる事が辛いと思っていた。習い事も勉強も、いつも最後は怒られ痛い思いをするから

学校がなくなればいい、お稽古ごとの場所がなくなればいい、お父さんがいなくなればいい、

それが無理なら私がいなくなりたい。

小学生だってそのくらいの

感情は生まれるのだ母よ、子供を甘くみすぎたんだよ

だから私は死より生きる方が辛い気持ちを知っている、死ぬ気で死にたい気持ちがわかる、だから簡単に「死ぬ気でやればなんでもできる」なんて馬鹿みたいな言葉は言わないし、言いたくもない。

毒親から私が受け取ったものは、

心の痛み、心の叫び、壊れる心、偽物の親子愛、歪んだ執着、抑制の効かない怒り、身勝手、我がまま、未熟さ、かな?

子供だったから全部背負ってみたけれど重い無駄だし役に立たないってわかったから、全部捨てたよ。

そう一つだけ「反面教師」以外はね。

知った方がいいよ?

子供にだって感情があって、生きているんだってこと。

by毒親育ちmochi