平気で殴れる人の愛は「偽物」だよ

いとこと電話をしていた、
「あの家」にいとこ家族が泊まったある夏のことを叔母が話していたのを思い出したと言った。
距離がありたまにしか会えないいとこ姉妹と私は仲が良く、泊まる時は1週間程滞在していたので日常生活が垣間見えたのだろう。
兄が何か悪さをし母が
私たち全員の前で叱る、父が帰宅すると母が昼間の悪事を報告する、父は母の話を鵜呑みにし兄の言い分を一切聞かず、母同様に全員の前で怒鳴り叱るのだったと。
2度も皆の前で叱られ、反論も聞かず、叔母の目から見ても立つ瀬がなくて「かわいそうに」と思ったそうだ。
まぁ、叔父も拳の使い手だったので何とも言えないが、叔母は少なくとも母方の「毒」の被害者であるが加担する姿を見たことはない。どちらかと言うと「毒」に対し諦めの感情を持っているように思えた。
母も父も「子どもをしつける厳しさ」を
互い見せつけ合っている所があった。
特に父、普段仕事で家庭を任せ切っていると母から責められる負い目からか「ほら俺だってちゃんと子どもを叱れるんだ(殴れるかな?)」と母に見せつけているように見えた。
母は圧倒的に「父へアピール」、ほら無視してないであなたも叱りなさいよ、この子こんな事言っているのよ?ほら、ほら、と焚きつける感じ。
それでも父が無言でいると
「ちょっと何で私ばっかり叱ってるのよ、あなたからもちゃんと言いなさいよ」と。
私を叱っている内容から変わり、父がどれほど育児に参加せず、母自身が苦労をし我慢をしているのかわかっていない、仕事に逃げられていいわよね、と父を煽る。
まぁ、そこからはご察し通りバイオレンスだ。
自力で逃げる事ができなかった小学生時代の記憶が途切れ途切れ、いとこも私も同じ、あまり覚えていないのだ。
友達の顔も名前も、遠足や運動会、修学旅行、薄ら覚えている部分もあるが、それら行事の「前」の記憶が圧倒的に多い。
毒親あるあるかな、
行事の前に揉める事。
運動会のゼッケンをすんなり縫い付けてくれる時と、怒って「自分でやんなさい、あんたのでしょ」と突き放される時。おかげで私は裁縫が得意になった。
修学旅行の荷物に関して揉めて悲しく不安だった「気持ち」だけ覚えていたりね。具体的に何があったから私がそう感じたのかは思い出せない。
母は私が楽しそうな姿に
腹が立つようだ、それは絶縁する時まで変わらなかった。
遊びに行くことを許してくれウキウキと支度をしている私に「やっぱりやめて家で練習(習い事)する」と言う言葉を引き出させる「責める言葉」をぶつけてくる。
けれど実際に断ろうとすると「行けばいいじゃない、あんたが約束したんでしょ?よく友達裏切れるわね、信じられないわ」と止めるのだ。
子供だった私に残るのは「絶望」、友達と自由に約束する事を許してもらえない私、遊びに行けたとしても「罪悪感」を手渡し送り出す母。
心底楽しむことが出来ない重たさ。
『勉強もできず、習い事も上達せず、でも遊ぶことだけ一丁前に楽しんで、いいご身分だこと』
この言葉、何度言われたかな、辛かったな、私ってダメな人間なの?って不安になるから。
でもね「あなたが娘でよかった、娘がいて幸せ」って言うの。かわいいって。
その年齢で受け止められない「言葉の暴力」で心をえぐり「楽しみ」や「自由」を奪った母。
いつの年齢であっても男性から「あんな暴力」を受けたことはない、そんな制御できない怒りを拳に込めた父。
でも二人とも「私」を手放したくない。
「常に」自分たちの「近く」に居て「顔」を見せてほしいと望む。なんなら大切な子供だとさえ言う。
いとこと話た。一緒におままごとしたり冒険ごっこして楽しかったよね。2家族で旅行もしたよね、懐かしいね、楽しかったねって。
でも「2度と戻りたくないね」って。もし次生まれてくる事があるなら「毒」のない親のもとに生まれたいねって。
思い返すとやはり「理不尽」に尽きる。
期待を持たせては奈落へ落とす、選ばせているのは親。
でも私の「口」から出た「言葉」だから、「お前が自分で決めたんだろう」と言う。
不満が溜まり爆発し「言い返す」と「我がまま」と認定され、母に叩かれ耳を塞ぎたくなるひどい言葉を沢山沢山浴びて、心が折れて茫然となる。
吐き出しスッキリすると唐突に「わかったならもういいわ」と、「クッキー焼いてあげようか?」と優しい母の顔で聞いてくる。
それに上手に「うん、嬉しい。
お母さんさっきは本当にごめんなさい」と答え、母が「いいのよ、わかってくれれば、さぁ美味しいいクッキー作るわね」という言葉を引き出せるように「顔と態度」を繕えれば「満点」。
上手くいかず、俯きポロポロ泣くと「あんたはしつこい、いつまでメソメソしてるのよ、せっかくこっちが気分転換してやろうって言ってるのに、我の強い子だわ、あー嫌になる」となると「失敗」。
最悪だと始めに巻き戻り再び心をえぐられる。やっぱり理不尽だ。
父は疲れて帰ってきて
母の機嫌が悪く愚痴をネチネチ聞かされながら晩酌をする。その声が聞こえる二階の部屋で私は死刑執行を待つ気分。
「おいmochiちょっと降りてこい」なら執行確定。
10歳の私は絶望を連れ仕方なく階段を降りるのだ。
泣きたくないな、朝まぶたが腫れて顔が変になるから。痣にならないといいな、友達にどうしたの?って聞かれたくないから。
父の暴力は私が結婚するまで続いた、二十歳をとっくに超えていた、私にね。
でも父も母も「私を愛している」
と言う。
子供のためなら命を捨てて守る、だって親だからって。まぁ私は100%信じていないけど。
仮にこれが父と母の「子の愛し方」なのだ、そう言われたとしたら?
即答「いらん」と返すだろう。
それがあなた達の「愛」ならば、そんな愛は捨てることはあっても拾いもしない、いらない愛情だ。
傷つけ、縛り、痛みを与えなければ
子どもを育てられないのがあなた達なのだと言うなら「親になるべきではなかった」。
なぜ兄が海外へ逃げたのか、なぜ私が絶縁したのか、なぜ孫すらも会うことを拒否するのか、なぜ父も母も自分たちの「親戚・兄弟」と付き合いが絶たれたままのか、
今一度振り返ってみるのがいいよ。それでも「自分たちは間違っていない」と一片の曇りなく胸をはり言い切れるのならその生き方を貫けば良い。
ただ押し付けるな。傷つけるなよ。
とだけ言いたい、でも会いたくないから言わなくていいや(笑)。
中学生までこれが私の
「日常」だった。これに加え毒兄である兄の暴力と性的虐待も加わったんだ。
忘れている記憶である必要があったのだ、私が生きるためにはね。
そのくらい「何が正しい」のか「愛されている」のか「疎まれてる」のか、心は常に混乱し、落ち着きは訪れなかったから。
フラッシュバックは嫌い。
ソファと一体化する鉛のような日は嫌い。
そしてこんな「理不尽」を抱えて生きなくてはいけない人生を与えた「親が嫌い」
にも関わらず反省などせず私のせいにしている毒親が一番「大嫌い」
ギュッと目をつぶる10代の私が可哀想になる
教えてあげたい、大丈夫捨てちゃいなって
人を殴る事が平気な人の語る愛なんて「偽物」だよ
低気圧はつらいね
by毒親育ちmochi
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