毒家族とは永遠にさようなら

ここ数日、手負いの動物のように
森の奥で一人耐えるイメージで「黒い塊」が薄くなるのをじっと待っていました。ふふふ、薄まりました。ホッと一息。
ふと全く気がつかなかった事に気がついて笑ってしまいました。
兄もまた「毒親を捨てていた事実」
縁を切ったわけではないけど、スマホもスカイプも使わない両親は有料でしか兄と話せない。だから話したとしても基本けちな母は5分くらいで電話を切る。
父とはメールでやりとりしているみたいだけど、どちらの方法も「喧嘩」に発展しない距離である。
兄は永住権を取得し一生日本で住まないと宣言している、今後結婚する気もない。
という事は母の希望する、「苗字継ぐ」→兄の代で終わる、「介護」→兄はできない、「墓守」→日本へ帰らないから無理。そもそも兄が海外で死んだら誰が兄を墓へ入れるのか?
うっすーく、両親とやりとりを
続けている兄だから親を捨てた感覚を持っていなかったけど、一生日本で暮さない宣言ってこれ「親と一生住まない」ってことじゃん!
今更ながらに気づいた私。遅いよ、自分(笑)
なんだろう、兄が海外へ行き5、6年過ぎて兄から受けた虐待の事実を思い出したから?私が癌治療してたから?その後毒親と絶縁したから?
うーん、何で私だけが「親を捨てた」罪悪感を持ってたんだろう(笑)。
どっかで海外に住んでるからしょうがないよね?って思ってた気がする。ある種、免罪符的な?
毒親の洗脳と支配により
自分の意思は二の次で生きてきた。
だから20代の私は、兄の母に対する仕打ちを理解するけれど母が可哀想と思い、私だけは母の味方になってあげなくてはいけない、これ以上母に悲しい思いや心配を掛けてはいけないと。
根底にこの気持ちがあったからこそ、結婚後も近くに住まないと、私までいなくなったらお母さんが可哀想って思ってた。はぁ、いらない気遣いだった…
だから孫を見せることも、お墓を守るのも、老後の介護も、私がやらなくちゃいけないだろうと覚悟を決めていた「私」。そうだった、20代の頃は確かにそう思っていたし、母とそんな会話をしたことがあったのも思い出した。
だけどパンドラの箱が空く前から
様々な事が、「親がへんなのでは?」と思う気持ちが、払拭できなくなっていった。(よろしければこちらもどうぞ↓)
きっと母は私が近くに残ったから兄を許した、mochiがいるからいいわと。何度か兄の住む国に両親で出かけていたから疑問も抱かずに受け止めていたけれど。
違う、そんな簡単じゃ無かった
出国するまで、それこそ私絡みの絶縁よりもさらに激しく酷いやりとりを、父と母と兄で繰り広げてた、そしてそれを私も目の前で見てたのに、すっかり忘れてた。父の記憶が出てきたついでに思い出してしまったみたい。
母はどれほど悪様に、どれほど憎み絶対にと許さない、そう決めた相手でもあっさり許す事ができる人だから、慣れっこになっていただけだ。
寂しさが勝つと、今までの許しがたかった事を「さっぱり忘れ」無かったことにし再び復縁する事ができる人、あぶない、あぶない、忘れる所だった。
あれほど兄を、裏切り者、
親子の縁を切る、2度と何もしてやらない、息子とは思わない、家の敷居を跨がせない、そう言っていたじゃない。あれ程怒り狂い裏切られたと泣いた母。
そっか、そうだった。だから母は言ったんだ、もうあなただけ、あなたしかいないの、と。
けれど気づいたら両親と兄は普通の親子の会話を再びするようになっていた。私は結婚したから父と母の間でどんな会話があったのか、それとも兄と話し合ったのか、両親から何も聞いていないからわからないけど。
パンドラの箱が開くきっかけは
兄に対する私の態度だったけど、もっとずっと前である「兄の移住」にあったと気がついたのだ。私に厳しく兄に甘い母に不満があったんだ。
気がついたら兄を許していた母、さらに時が進むと「単身海外で頑張る偉い息子」になった、さらに進み「逃げ出さずちゃんと海外で生活を続けるしっかりした息子」に表現が変化していった事。
これらの変化が気に食わなかった私、だから兄の話を聞くのがどこか白々しくて嫌だった。思い出した今、手が震えている。
あーあ。兄にまんまとしてやられたんだ。やっぱり毒兄だわ。
毒親の歪んだ愛、毒母の期待、
毒父の理数系への強い勧め、兄の肩には重すぎて明るくも楽しくもない「未来」がのしかかっていた。
だから私を使って発散したんだねきっと。
一人地元に残るのも「大学卒業後に実家に戻る」約束だから許したのだし。
学生時代に借金を作り、人に迷惑をかけ、両親から数百万肩代わりしてもらった事。
それでも地元に残り、そこそこの会社に入社したのに半年で辞めてフリーターになった。
資格を取り再度別の会社に入社したけど1年も持たずまたフリーター。
兄が実家へ帰ってくる時は祖父母にお金をねだる時。それが証拠に危篤になっても「金がない、送ってくれるなら帰る」といって母に出してもらってた、むーーーーーーーん。やばい、覚えてるけど忘れてた。
父の還暦の祝いも
母が「え?」って思う金額の時計を家族全員から送りたいと勝手に決め、諭吉ダース単位で請求された。その時も兄は金が足りないからと、ほぼ全額私に立替えさせた。母に内緒にしといて、金ないって言うと怒るからって。
兄は私に電話をかけてきては「母の愚痴」を私に言ってたのも思い出しちゃった、最悪だ。
加害者の相談に親身に聞いてやり、諭吉も工面し、庇ってやってたのか、私。
そして父も母もずるいな、
あんなに兄を軽蔑し、許さないと言っていたのに、私という「代わり」ができたらすんなり許すなんてさ。
そっか、だからこそ「私の老後がなくなった」んだ。繋がったわ。期待が期待外れになったからだ。(よろしければこちらもどうぞ↓)
娘が、がんと知った時、母は「私の老後がなくなったのね」と言った
つくづく自分にとって都合の良い生き方を選ぶ人たちなんだなー。
毒父、毒母、毒兄、あなた達三人は、似たもの同士だね。
考えてみたら、私は母が機嫌よく過ごせるように気を遣ってきた。父が会話に入れるよう気にかけて話題を選んでた。兄の親に対する愚痴を聞き庇ってきた。
でも私の言う事
「兄からの性的虐待」は、誰一人ちゃんと耳を傾けてくれなかった。誰一人親身に聞こうとしてくれなかった。それどころか私を嘘つきと言った両親。あんなに人間関係も金銭感覚もいい加減な兄の言葉を「真実」と受け止めたよね。
そして私より4つ年上の兄は「やっていない」ではなく「覚えていない」と答えたんだよ?普通身に覚えのない罪を着せられそうになったら「やってない」、そして怒りの感情が先に立つよね。
父がね、直接兄に聞けって
いうからあの日電話したよ。今ならわかる…発作起きてたね私。震える手で、声で、ぐわんぐわん鳴ってる脳で、「過去の忌まわしい事実」を本人に確認した。トラウマすぎる最悪な記憶。
兄はね、ヘラヘラ笑って「えー、わからない、ちょっと覚えてないな」って言ったんだよ。
パチンと何かが切れちゃって、電話口で悲鳴に近い声で「覚えてない訳ないでしょ」って喚いたよ、いい加減にしろ、ふざけんな、思い出せ、認めろって、思いつく限り言葉をぶつけた。
なのに父か母か忘れたけど私から受話器を奪って「覚えてないんだな?本当だな?mochiほらこう言ってるよ」って、その後兄と親が二三言葉わ交わして電話を切った。
そして覚えてないって事は
無かったんじゃない?昔から変なところ嘘つくから、って言われた私は頭が真っ白になって、ダイニングテーブルごと親を力一杯押したのだ。
言葉にならない叫び、つらかったな
私は2度と毒家族と関わりは持たない
何かあったら全て「兄」にやって貰えばいい
私はこれから先も「自由」を生きる
でもフラッシュバックも癌細胞も一緒なの
母がどんなに寂しかろうと
兄に寂しさを埋めてもらえ
父がどんなに孫に会いたかろうと
私から口添えすることは無い
兄が今後両親に何を求められようとも
私に一切関係ないから
誰一人私の言葉を信じなかったんだ
私も家族の誰一人信用はしない
一生会うことも無い
永遠のさよなら
by毒親育ちmochi
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