毒母もまた母に愛されぬ娘だった

毒母もまた母に愛されぬ娘だった

母と祖母との関係

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よろしければ上記の『mochi家毒系譜』をご覧になられてから、お読み下さるとをわかりやすいかも知れませぬ。

※母を含む四兄弟の呼称を、長男(松一)母(梅二)、次男(竹三)、次女(桃四)と表記する事があります※

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母の実母(私の祖母)は猛毒の持ち主

デフォルトがしかめっ面で、誰かを馬鹿にしたり嫌味を言う時の笑顔しか記憶がない祖母。

当時、祖母宅の隣に住んでいた松一家。

祖母は松一の妻に散々「我が子の悪口」を聞かせていた。松一(夫)・梅二(私の母)・竹三・桃四、この四兄弟の悪口を。

夏休み「祖母の隣の」松一姉妹に会いに遊びに行くのが楽しみだった私。そこに唯一にして最大に気が重かったミッションが、先ずは祖母宅にご挨拶に行く事であった。

松一姉妹と仲良しだった私は、小学生高学年の頃には、一人新幹線に乗り、駅に迎えにきてもらって一足先に松一家に泊まりに行っていた。

祖母にご挨拶に行くと必ず、「何し来たんだい?」と一声。鋭くきつい言葉と、無事着いた安堵が混ざって、涙が浮かぶ。

すかさずぴしゃりと祖母は言う。「泣くくらいなら、とっとと帰んな!別に会いたきゃなんだ私は」と…。

毎度のやりとりだから、

泣くまいと決めているのに、やはり大粒の涙はぼとりと落ちる。

すかさず松一妻が「お義母さん、楽しみにしてたのに、なんで心にも無い事言うんですか」と庇ってくれる。これがまた涙を誘い、「おトイレ」とやっとこ声を絞り出し、トイレの中で嗚咽を堪え、涙が引くのを待つ。

顔を洗って、再び祖母と顔を合わせて、「ご挨拶」の儀式は終了。

これで晴れて松一姉妹と心置きなく遊べる。松一姉妹の顔を見て、すぐに悲しい気持ちが消えて、笑顔が溢れるが、

その様子をこれまた祖母が意地悪そうな微笑みで「今泣いたカラスがもう笑った」と楽しい気持ちに水を差す、毎度の儀式。

祖母は意地悪で怖い人、

孫の私からもそんな存在。竹三の姉妹も同様に感じていおり、彼女たちが幼い頃は祖母宅に入ることが怖く、外で怯え泣いていたものだった。

大きくなる頃には竹三の娘たちは顔を出す事はなくなった。やはり意地悪とはそんな結果を産むのだ。

隣だったため松一妻はよく祖母に

捕まっては話し相手をさせられていたという。祖母にとって我が子である、4兄弟の悪口を。

この中でも一番多く聞かされたのが、私の母(梅二)のことだったそう。
祖母曰く、癇癪持ちで、利かん気が強く強情で、4人のなかで一番育てにくかったのだと。

あまりに祖母とぶつかり、どうしようもなく、祖母の実兄宅に子供がいなかったため、祖母の実兄宅へ養子に出すはずだったのにと。


この話は母から何度も聞いて、母と共に、養子に入る予定だった祖母の実兄宅にも数回伺った事もある。

実際に養子に入るにあたり、幼き母は、新学年から転校し、学区行きの小学校へ通い、夏休みが終わるまでの間同居をし「お試し期間」を過ごした。

母曰く、自分の家と違い、おばさん(祖母の実兄の妻)は優しいし、ご飯も美味しくて、「ずっとここの娘でいたい」と養子に行くのを快諾したのだそう。

しかし予定外の事は起きるもので、

おばさんが子供を授かったのだ。養子の話は白紙となり「おばさんの子になっていた方が絶対に私は幸せだったと思う」と、母は残念に思ったという。

当時の私は、そうだよな、祖母は怖い人だもんな、わかるよその気持ち、と納得して聞いていた。

私の想像力が足りず、その程度の重みで受け止め母の話に肯いていた。実際お会いした「おばさん」は確かに穏やかで優しい人だったから尚更に。

昭和30年代の「養子」の捉え方は現在と違うのかもしれないので、あくまでも私の個人的感想なのだが。

いずれにせよ、お試し期間を終え互いのマッチングよかった養子話が、「実の子」が誕生することにより、「実家に戻る事」になったこの出来事は、母の心に深い傷を負ったのではないかと、今の私は考える。

時代は違えど実の母親から

「気が合わず育てにくい」という理由で養子に出され、再び家に戻らされた小学生の母の心はそうとうに傷んだだろう。そして顛末を知っている兄弟の中に戻るのだ。笑って済ませられる話ではなかっただろう。

母は、おばさんが亡くなるまで、顔を見せに行っていた。

祖母が生きていた頃は「お母さん(祖母)、先日私おばさんに会ってきたわ。元気そうで嬉しいわ。本当は養子に行く予定だったのよね?懐かしいわ、お母さん」と笑顔で話していたけれど、

あれは母なりの強がりだったのではと想像する。

母は祖母が「自分を捨てようとした事実」を、年老いた祖母に「私はずっと忘れていないわよ」と言いたいのと同時に「でもなんとも思ってないわ。だって私は寛大で優しいの、あなたとは違うの」と強く訴えていたんじゃなかろうかと。

そしておばさんに「本当は私、おばさん家の子になる予定だったのよね」と甘えた様子で語りかける。

あれも母なりの過去の痛みを乗り越える

「荒療治」だったのではないだろうか。もう気にしていないから、おばさんと会っても平気な私。もう何とも思っていないから、祖母に過去の話を自分から語れる私。

どう?私大人でしょ?だから全部水に流せるのよ私。

そうやって現実を飲み込み、母なりに乗り越えてきたんだと、幼き母の心を想うと切なくなる。

母は、毒母に育てられ、4人の子どもの中で「自分だけ」捨てられそうになった。貧しかったとは言え、なぜ私なの?と何度も思っただろう。

母もまた苦労し、生きてきたのだ。

母は強いものに謙り、弱気を叩き、心のバランスをとっているよう私の目には写る。

自分を避け嫌う人間に、下手に出て懐に入り込む癖がある。相手も好意的にならざるを得ないように、無理やり縁を結ぶのだ。

それがきっと母の処世術であり、

生き方なのだろう。

母の中で自己完結しているなら問題はなかったのだが、母のプライドは高い。強きにおべっかを使う悔しさを、弱き「八つ当たり先」にぶつける。

嫌われるのが怖いから、親切に世話を焼く相手を見つけては、甲斐甲斐しく介抱し貢ぎ、「ありがとう、助かるわ」という「言葉」を貰い、やっと心が満たされる。

これも自己完結なら素晴らしき好意の持ち主だが「へいこら」してやったのに「見返りがイマイチ」だと、不平不満が出て、これまた「私か父」という八つ当たり先に、延々当たる。

母は「他人から見て幸せに見える」

事が自身の大切な軸のようだから、生きている間満たされる事はないと思う。

他人=世間、と捉えていて、あまりにもざっくり広すぎる。全方位に幸せそうに見える人って一体どんな人???と疑問でも湧いてくれたら違ったのかも知れないけれど。

持ち家があり、贅沢さえしなければ蓄えもある、二人とも健康で、娘夫婦は徒歩数分の場所に住み、孫ふたりを新生児の頃から見守れる環境、娘の夫は穏やかで、強いて言えば娘が希少がん患者だという程度の不幸しか見当たらないのに。

それでも父も母も「感謝が足りず、親不孝で、わがままな娘」と物心ついた頃から言い続け、

言われた通り、母の押し付ける習い事、父の押し付ける進学先、母の決めた就職先と、言うことを聞いてきたのに「誰のおかげで大きくなったつもりだ」と責められる。

だから私から見限ったの。

足りないものばかりに目を向ける両親をね。

私は楽しい事を見つける方が好き。見方を変えれば世間は楽しい事で溢れている。

今日もね、朝布団の中で思った。やっぱりこの毛布買って正解だった、ぬくぬくで幸せすぎん?って。

不幸を並べても私が幸せな気持ちにならない

楽しいを日常に発見したら私が楽しい

母も毒親育ちで、理不尽も葛藤も

悔しやも痛みも惨めな思いも、沢山経験して生きてきたのはわかる。

残念だったのは、痛みを優しさに変換し、母自身が幸せに生きる方法を見つけられなかった事。

それは父も同じ。

なぜ誰も寄り付かない家になってしまったのか、本当に悪いのは周りだけなのか、それを考えなければ、父も母も幸せにはなれなだろう。

そう思った雪の舞う日

by毒親育ちmochi