毒親編はじめます

毒親というパワーワード
毒親と聞くと、暴力ネグレクト等の肉体的虐待事件のような、ニュースで目にする事件関連を思い浮かべる人も、まだまだ多いのではないでしょうか。
ニュースになる事件の場合、親を「毒親」と呼んでも、納得してもらえる言葉だと思います。
しかし、目に見える肉体的虐待を受けていない場合、他者に両親の事を「毒親」と表現し話をするのは気が引ける自分がいるのも事実です。パワーワードかなぁと…
父母を毒親と言い切ってしまう事に少し罪悪感を感じるけれど、大人になっても依然「生きづらさ」を抱えている私が存在するのも事実…
それは「親の毒」にまみれ、認知の歪みの中で育ったから。
そして抱える「生きづらさ」こそが、生育環境にあった事に気がついたから、であって。やっぱり親を毒親と表現する以外当てはまる言葉が見つからない…。
認知の歪みに気が付かなかったら
解毒しようと行動を起こさなかったら、今頃私はどのように生きていたのだろう…想像するだけでゾッとする。
絶縁できて本当によかったと一片の曇りなく言い切れる。
昔の私は、自己肯定感が低く、物事を深く考え落ち込み、それでいて親しい友人にはぞんざいな態度をとって(甘えたかったのだろう)、何かおかしい…そう感じ始めたのは10代だったと思う。
怒りと優しさのバランスが変で、振り切れてしまう。ちょうど良い加減がわからない。
自分の行動なのに、止められず後で後悔する…この繰り返しだった。
自分が母親となって毒親に不信感を、
募らせていくようになるのだが…
後に綴っていくけれど、
私を毒親の沼から救ってくれたのは「お子①②」だった。
子育てを通じ「幼い頃の私」が顔をのぞかせる瞬間が度々訪れ、母に言われたきつい言葉が蘇る。過去の記憶に「今の私」が再び傷つき悲しくなる。
幼い私が不憫で、
どうしようもなく途方に暮れ、心細さに胸が詰まり、目の前の我が子を抱きしめた。きっと子どもを抱きしめていたのではなく、「あの頃の私」を抱きしめていたんだと思う。
父母がふるった体罰が、どれほどひどい仕打ちだったのか。無力な子どもだった私の心がえぐられる追体験で、
後で知ったがそれを「フラッシュバック」と呼ぶのだそうだ。(現在、複雑性PTSDの治療中)
それは現在進行形で毒親の「歪み」に新たな気づきを与え、二度と「あの暗黒に戻らない」という、強い気持ちを育ててもらっている。
なぜか?
私には、物心ついた3歳の頃、すでに父母から「叩かれ、小突かれ、真っ暗なトイレに閉じ込められ、雪降る夜に肌着で締め出された」記憶があってね。
それから十数年経て、私は母親となったのだけど。
母(私)、を必死に頼ってくれる
小さな命に出会った。
とてもではないが目の前のお子に「私が経験した事(父母による暴力)」と同じことを私は出来ない。
というか出来た父母が信じられない。
その気持ちこそが、私が父母に対し「不信感」を募らせると同時に、私自身子育てに悩む始まりでもあり、結果両親が毒親だと気がつくきっかけとなるのだった。
「毒になる親」を読む
毒親に悩む人の入門書とも言える「毒になる親(スーザン・フォワード著)」を読んだのは、今から15、6年ほど前である。
「アダルトチルドレンという物語(信田さよ子著)」も読み、アダルトチルドレン、機能不全家族、そして毒親という単語を初めて聞く。
15、6年前、「毒親・アダルトチルドレン」という言葉はほぼ認知されていなかった。
「毒になる親(スーザン・フォワード著)」は、
心に「親に対するモヤモヤ・怒り・悲しみ・苦しさ」があるが「物質的には何不自由なく育ててもらった」のだから、親に感謝するべき、そうでなくちゃいけないと思い、苦しかった私の気持ちを代弁してくれた。
読了後…
親に感じる「違和感」の正体は成育環境にあったんだ!親を悪く言ってはいけないと我慢しなくていいんだ!
モヤモヤし持て余し気味だった私の気持ちを「言語化」した内容に…読んで涙が止まらなかった。
あの時本を手に取ったきっかけは
「子育てに悩んでいた」から。
子ども①がまだ幼い頃で「愛情」と「甘やかす事」の違いがさっぱり分からず、参考になるかな?と思ったからだったが。
まさか私自身が救われるきっかけになるとは…出会いって奇跡( ´艸`) ♡
毒母は「愛している、あなたが大事」と
言った同じ口で「あんたなんか、いても何の役にも立たない」と言う人だったから。心は不安定なまま、私も親になってしまい、「母のような母親になりたくない」という気持ちだけは強く、でもどうしたら良いかわからず焦っていた。
私は気になるととことんまで調べたくなる性分。ググれる時代まで少し時間があって、情報取得は「書籍」の時代、あの本に出会って本当ラッキーだった。
私の価値観がカラリと変わった音がした、本当に。
私の中身の「何か」が変化しそうな予感もした。
まあね、状況把握ができても、親の「洗脳と共依存」から抜け出せるのは、まだまだ10年以上先の話になるのだけどね。
外から気がつけない「毒親」の存在。
私の両親もそうだが、世間的には品行方正で常識人、優しく穏やか、理想的な優しい親と認知されている。
「素敵なお母様でいいわね」と、よく言われたものである。
だがそんな親の中に、意外にも毒親が潜んでいたりするのだよ?
私の親のエピソードを
これから「毒」編で綴っていこうと考えています。
優しい親の面と「毒」を帯びた親の面、どちらも本当の姿だった…
戸惑いながら数十年単位の年月をかけ、やっと自分が「どうしたいのか」そして「自分ファーストな生き方」ができるようになったのか。
そのあたりを毒編で綴っていきたい。
子どもの頃、私の居た場所
それは暗黒だった。
毒親の子どもへの態度の一貫性のなさを、小さな子どもは理解できない。そして怒鳴り声は恐怖でしかなかった。
親に怒られないよう、地雷を踏まぬよう、
親の顔色を伺い、毎日を穏便に過ごせるように自己を封じ込め、
本音を語らず、親の精神の安定を一番に考え、怒鳴られている時は進んでサンドバックになった。
親に捨てられる恐怖で支配され洗脳されていた私は、「母に捨てられないよう」懸命だった。
子ども時代の私は、
母の愚痴を聞くカウンセラー、母の親友、母の母親役でもあった。
どんなに理不尽で嫌味な言葉を吐かれ、怒られ、言葉の暴力で当たり散らされ、挙げ句の果て、叩かれ、サンドバック状態で心がボロボロに傷つこうとも、
それでも母が好きだった
母に嫌われないよう、母に好きでいてもらいたくて、母に笑っていてほしくて、幼いながらも健気にアンテナを張り巡らせ、怒らせないよう、笑顔でいてくれるよう願い、神経を張り詰め…
その努力(気を使い顔色を読むこと)で、家庭内に自分の居場所を作り、母の不機嫌に細心の注意を払い生きていた。
土下座お年玉事件ってのがあってね

私の父母、いや母方の家族ははっきり言って毒に浸かり切っていた。今思い返してもなかなかの毒っぷり。
何がそんなに祖母の逆鱗に触れたのか覚えてない小学校の頃、親戚が集まるお正月、
覚えているのは祖母宅。
私も含むいとこ全員が祖母の前に正座させられ「お年玉がほしけりゃ土下座してお願いしな!」と言われたお年玉土下座事件。
気も使えるが、気も強かった私は、もちろん間髪入れず「土下座するくらいならお年玉はいらない!」と言った。
言ったその横では、兄が土下座をしてお年玉をもらっていた…(新年早々地獄絵図)。
貰わなかった女子チームは「可愛げのない子たちだね!」と言うお言葉のみを戴き、本当にお年玉をもらえなかった新年の幕開け。
この場面、鮮明に覚えてる((((;゚Д゚)))))))
思い返してファンキープっぷり炸裂の気性の激しい祖母でした。優しかった記憶は1割程度、気まぐれに優しくしてくれる日もあったなぁ程度。
しかめっ面とくわえタバコと、花と金魚を愛でる「母方の毒のボス」、それが祖母だった。
毒編、本日はこの辺で。明日は「病」編です。
明日も遊びに来ていいただけたら嬉しいです。
by 毒親ちmochi
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