私から毒親を捨てた日

その後、なぜ母と再度ランチをするようになったのか
年末年始、お盆、さらにもう一度年末年始を過ぎた頃(間に一度電話がかかってきてるけれど、詳しくはこちらからどうぞ↓)
毒親と年末年始を過ごさない二度目の年が開け、3月中頃だったと記憶している。
父の傘寿(さんじゅ)祝いの件
で連絡があった。
流石に節目の年なので、無視することは義理にかけると思い会話をすることにした。(ここで対応しちゃうのが搾取子の悲しいところ)
父は嘱託で働いており、キリよく傘寿に会社を辞めるとの事。ちょうど子どもたちの節目の行事もあったので、
私は「父の退職&傘寿、支えた母のご苦労様、子どもの節目、これらを一緒にしてお祝いしようよ」と提案した。
母は喜んだ
「嬉しいわ、それいいアイディアだわ」と。
本音は、後々まであの時は…と母に絡まれる粘着を考え、一回きりで毒親が満足する会を開催するのが楽だと考えたのだ。
2度目のランチの時
母が注意深く、しかしさりげなさを装い、爆弾を目の前にそっと差し出した。
「ねぇ、お父さんのお祝いの事なんだけど、兄がそれに合わせて帰ってくるのよ。だから、どこかレストランを予約して、親戚兄弟も呼んで盛大にやろうと思っているのよ。どう?いい考えでしょ?」
私は固まってしまった。何度目か?
この人は一体何を言っているんだろうか?ただでさえ、私のパンドラの箱の蓋を無理やりこじ開けた上、「真実」は「なかった事」とし、私と会話しているのだ。それはあろうことか、目の前にいる、紛れもない私の母、そう、あなただ。
これを毒母と呼ばずにいられるほど、私は聖人君子ではない。(パンドラの件はこちらからどうぞ↓)
まただ、目の前が暗くなる
足元から絡みつくような粘り気、視界が揺らぐ、息が苦しい。
絞り出した言葉は「兄と顔を合わせるのは無理だから、兄と両親でお祝いしてよ。で、私たち家族と別の日にお祝いしない?」
母は「言葉の爆弾」を私に預け、私の返答に「無視」をし、そのまま無言でランチを終えた。
母もさすがに何かを感じ取ったのだろう、「先に帰る?」と聞いてきた。無言でうなずき、グラグラする地面を歩くかのような感覚でようやく家にたどり着いた。
やはり、ダメだ。毒親、毒母に、
私の気持ちを推し量ってくれなどという願い自体が、どだい無理な話だったのに。
理解を求め、期待したことが愚かなのであって、嫌と言うほ残酷な現実を、何度も何度も何度も、味わってきたではないか。
なのに何故まだ、母の気持ちを忖度する自分がいるのだ?脱力し、何もする気になれない。
仏心、いや違うな、親にいい顔をしようとしたのが、やはり間違いだった。約半世紀も生きてきて、何も進歩のない自分にがっかりした。やはり自分の選択がバカだった、呆れてしまう。
1週間ほどし、母から電話がかかってきた
そう、これが私が母と絶縁を決めた最大の出来事だった。
二度と後ろ髪など引かれやしない、一ミリも後悔はしない、きっぱり、さっぱり、もう毒親はいらない、血縁者といえども他人だと思え、二度と期待もしない、二度と会う事はない、
御託はいい、要は「親と縁を切る」とはっきり決めた日だ。
電話越しに母が言った
「ねぇ、兄が一時帰国するの、お父さんのお祝い、土曜と日曜、どっちがいい?あなたたちの予定に合わせるわよ。(二択であって、兄と会わない選択肢は提示無し)」
私「前に言ったけど、兄と顔合わせたくないから、別の日にお祝いさせて」
母「え?まだ何かひっかかってるの?まさかあの事?しつこいわねぇ(ため息)」
私「うん」
母「えー!だって覚えないって言ってたわよ。そんなに言うなら、もう一度聞いてみるわよ!」
私「聞いてもいいけど、兄の返事を私に聞かせないで欲しい。」
母「わかったわよ(怒)。っていうか、本当に事実なの?兄は覚えてないって言ってるんだし、だいたい何年前の話と思っているのよ。いい加減水に流せないの?」
私「思い出しちゃったんだから、無かったことなんて出来ないし、私嘘はついていない」
母「はぁ(ため息)、なんで今更そんな事ほじくり返すのよ。今じゃなくてその時に言ってくれれば、どうにか出来たかもしれないのに、(その時言えなかった家庭環境だったのよね)
今になって言われたって、こっちだってどうしたらいいかわからないじゃない!だいたいさぁ、あんたさえ水に流せば、みんなうまくいくのに、
どうしてあんたはいつも混ぜっ返すのよ。いい?もう一度兄に聞くけど、嘘だったら冗談ではすまないからね」
私「聞いていいから、返事は聞かせないで…」
母「(言葉を被せ)わかってるっていってるじゃない!うるさいわねぇ」
私「今のこのやりとりもセカンドレイプだからね」
母「あんたは、いつだってそうやって言葉ばっかり達者で腹が立つ!わかったわよ!」と電話を切った。
結局母、もとい毒母は、
私の言った事を「嘘」であり「無かった事」にしろ、とメッセージを送りつけただけだった。
受け取った爆弾が着火し、爆破した。私は自力で立っていられず、その場に蹲み込んだ。
雲ひとつない、綺麗に晴れた、ある春の日。
私の心は木っ端微塵に吹っ飛んだ。
あぁ、愛・絆・家族、それすら陳腐だったんだ。
毒母は私に「兄の件」を水に流し、普通に「兄妹の交流」を持て、と言ったのだ。そういえば、この世に血を分けた、たった1人の兄妹じゃない、どうして仲良く出来ないの?、とも言ってたな。
それってさ、殺されそうになったけど?
吐きそうな性の知識を無理やり識植え付けられたけど?
身内だから水に流して許せってこと?
レイプだったら?
それでもお母さんなら、お母さんの身の上に起きた事なら、家族が円満でいるために、許して顔合わせて、普通に話せるの?
そん風に簡単に自己を犠牲になんて、私には出来そうもないや。
親の「しつけ」の後遺症で、今でも暗くて狭い場所にいられない。
兄の「暴力」で先の尖った刃物が怖い、先端恐怖症だ。
父は、いいや「偉大」な「かっこいい」言葉を話すだけの人。
(詳しくはインディアンの教えあたりをどうぞ↓)
それでもなお、心を押込め、毒親へ毒兄へ「家族のフリ」をする事に、なにか意味があるのだろうか。
それは毒母が満足するだけであり、
毒父も喜ぶかな?
まぁその程度の話で、毒親の「喜び」のために、私が精神安定剤を飲んで、心をぼやかしてまで「喜んでもらう」ために、捧げるほど価値のあるものなのだろうか。
答えは「NO」だ。私は、はっきりと言い切れる。迷いはない。
二度と毒親と、毒兄と、交流などもたない。私は天涯孤独だと思えばいいのだ。愛も、支えも、癒しも、持ち合わせない人たちに、なぜ私が心をすり減らしてまで捧げなくてはいけないのだ。
約半世紀、ようやく決心がついた。
二度と振り返らない。私が毒親を、毒家族を捨てるのだ。
都合よく雑に扱ってきたのだ、この先の私の人生まで好きになど絶対にさせない。
私は「愛」をもって「愛」にふれ、心穏やかに、楽しく暮らしたいのだ。だから私は、私の行きたい道を行く。
これにて、さよならだ。じゃあね。
by 毒親育ちmochi
-
前の記事
毒親との絶縁を早めた一本の電話 2020.03.14
-
次の記事
毒親の期待する「円満な家庭」とは? 2020.03.16
ぽちぽちっと♡励みになります
SNS
