断る=罪、これを「断る≠罪」にする考え方

3年前、毒親と絶縁をし、
自己を再構築するなかで、自分を自分らしく生きるために、感情の断捨離をすることにした。(2020年4月から絶縁して4年目になりました♪)
幼少の頃から常に他者の顔色を伺い、勝手に気を使い、勝手に気を回し、勝手に傷つき落ち込む自分、これを一番手放したかった。
急に思考を変えることはできないので、
まずは、自分の「やりたいこと」を優先し、「気が進まないこと」を後回しにするように、順番を入れ替えることから始めた。
1日は24時間しかない。
次は、今日残った「後回し」は、明日に「持ち込まない」ことにした。
仕事じゃないのだ、したくない物事をしなくたって誰にも責められやしない。これを、実体験として自分に経験させ、「大丈夫」という認知を繰り返す。
そのうち、気の進まない気持ち時の、ランチや、会う約束や、かかってきた電話を断っても、相手は特に変わらない事が分かった。
毒親は、忙しい?今平気?と
聞きはするが、「忙しいからまたね」と言うと途端に、不機嫌な声色に変わるから、平気だよ、と答えるのが正解。
そもそも人から誘われたとき「断る」=「罪悪感」なので、自分の心の平和の為にも、無理にでも付き合った方が楽、と思っていた。
それは毒親の思考が間違えであり、
普通は「そうかこの日は都合が悪いんだ」で済むのだ。断るのが悪い、と思う勝手な忖度が意味がない事を知る。
無理して相手の都合に合わせる気持ち、これを断捨離してすこぶる楽になった。
相手の都合と、自分の都合が
「合った」ときに初めて「約束」をする。
こんな当たり前なことにすら、気を使い無理していたなんて、一体誰のために気を回していたんだか、なんだかなぁ、実になんだかなぁ、である(笑)。
絶縁による、激しい心のアップダウンも、
複雑性PTSDの阻害薬と先生のカウンセリングで、なんとかやり過ごす事ができ、
少しづづ、心が癒えてきた。すると自分の周りもちゃんと見えてきた。(よろしければこちらもご覧ください↓)
相手の都合も聞くが、
自分の行きたいレストランや都合や日にちをねじ込んでくる人。せっかくウキウキ出かけてるのに、愚痴をこぼしがちな人。
不思議だよね、断れない自分だったときは、もやっとしても、関係性をどうしよう?と考えた事はなかった。
無駄なんだよ。気の合わない相手と、ネガティブな話しかしない相手と、一緒に過ごす時間が。
率直に、そう思った。
例を挙げれば、二枚舌の人。
ある日別の沼友との会話で、互いに「え?!」事実と違うじゃーん、どうりで変だと思ったよー、みたいな未熟な人。
私も友も「いい歳して悪口言う人とは付き合えない」から、その沼友と距離を置いた。
それでも、別に私の人生に影も落さなかったし、その沼友とは、今は互いに違う沼に生息しているが、今も仲良し。
そう、「一緒」の沼でなくても仲良くいられる。それは「接し方」が自分の好みと合うかどうか、それだけなんだろう。
仕事ではない、プライベートなのだ。嫌な気分になり落ち込む相手と無理に会う必要など全くない。
自分の軸がしっかりしてきて、
断ることも、仲良くなることも、絶縁前より上手になってからは、「毒親」に似た思考の人とは、自然に、あるいはあえて、距離が離れた。
周りの居心地が良くなってきたら、ますます「一人」の時間も楽しく過ごせるようになり、友と会う時間も増し増しで楽しくなった。
一番変わったのは、私を雑に扱う人がいなくなった。
絶縁以前はそれにすら気がつく事がなかった。この人は物言いがきつい人、でも根はいいい人、と言う認識。
今は違う、根がいい人なんて
言い訳言葉だ。
いい人は常にいい人、そして裏で悪口を言う人は、いい人なんかじゃない。
私の好きな友たちは皆、弱音は吐くけど、愚痴ははかない。相手を思いやれる心があり、どんな局面でも、強く優しく、謙虚だ。
年齢でも性別でもなく、
魂が「大人」なのだ。だから年下年上など関係なく、私の好きは人たちは、間違いなく素敵でかっこよく、尊敬している。
子供①と同年代の友からも、沼先輩からも、素敵な学びをもらい、同じ沼で拳をあげ汗を流し、笑顔を交わすのだ。
なんて素晴らしく幸せな時間(いまは少しおやすみだけどね)。
絶縁する前、想像できなかった「楽しさ」「充実」「愛」を知れて本当によかった。
魂が輝いている人に、
年齢も性別も関係ない。輝いている人は若くても歳を重ねてもやはり輝いている。
逆に、魂が汚れている人は、自分の意識を変えない限り、歳を重ねても輝きはしない。
気がついた、気がつけた、だから自分から変わりたいと思えた。
今の私は、したくないことはしない。乗り気じゃないことに時間を費やしたくない。
断る時は一瞬勇気がいるけれど、
それは一瞬。我慢をする分だけ嫌な気持ちは終わらず続く。
考えればごもっとも、なんだけど、毒親育ちあるあるだよね。
断る=罪、これを「断る≠罪」、に脳を書き換えてあげなくては、いつまでも「後ろめたさ」を手放せない。
持っていても必要のないもを捨てるのが「断捨離」、物も、人も、感情も、不必要と判断したら、思い切って離せばいい。
捨てる痛みは一瞬だ。しかし一瞬であっても「痛み」である。
物を捨てるにも量が多ければ、反省し、次からはよく考えて購入しようと考える。
それは、人間関係も、思考回路も同じだ。自分に必要のないものを「もったいない」、
それだけで部屋を狭く風通し悪くしても、良いことなど一つもない。
捨てる勇気、変わる勇気、一人で立つ勇気、
繰り返そう何度でも。痛みは一瞬。必要な物を手放せ、と言っているんじゃない。
自分に不必要なものを手放すんだ。痛みは一瞬。時が過ぎれば必ず癒えて、安寧が訪れる。
自分の心身の声にきちんと耳を傾けて、自分で判断し、自分で取捨をし、自分を明るく居心地の良い場所に連れて行くんだ。
自分を悪く言う「雑音」になど、耳を貸す必要はない。
何度もいう、時間は有限だ。
楽しい時間ほど早く過ぎてしまう、だから早くね。
by 毒親育ちmochi
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