心療内科に実際に持参したメモ記載

心療内科に実際に持参したメモ記載

私は以前より、別の心療内科に通っていた。

それは、悪性腹膜中皮腫の手術をし退院後から、横隔膜の悪性腫瘍、セカンドオピニオン、抗がん剤の種類、子どもをひっくるめ、将来の事、これらを考えていると眠れない夜が度々あった

腫瘍内科の先生が、睡眠導入剤を処方してくれた。我慢せず薬の力で「脳を休めるため」に睡眠をとりなさい、と。

夜、睡眠導入剤を飲んで「寝る」ことが可能になっただけで、心も体調も回復が早く、考え事も論理的思考へ向かうことができた。(手術後の件、くわしくはこちらからどうぞ↓)

退院後の決定すべき事は、抗がん剤について

悪性腹膜中皮腫に関しては

抗がん剤治療をしない、と決めてからは、検査・診察となった。

やがて、月に一度の診察が、2ヶ月おき、3ヶ月おき、と間隔が空いていった。睡眠導入剤は30日分しか処方できないそうで、睡眠導入剤を処方してもらいに、近所の心療内科へ行く事にした。

この時点では、眠れぬ原因は「悪性腹膜中皮腫(がん)」という現実が「不安」で「眠れない」と、私自身が思っていたので、

心療内科の先生も、余命うんぬんを考えたら、「何も考えず」「眠る」事を一番に優先すべきと、月に一度睡眠導入剤をもらいに、5年近くその心療内科に通院していた。

2年前の「傘寿春の乱」の時

新たな心療内科の初診を予約した。(傘寿の件、くわしくはこちらから↓)

私から毒親を捨てた日

なぜか?

ずっと通院していた心療内科の先生が優しいおじいちゃん先生だったから。

私が家族による虐待の過去で眠れないと伝えたら、先生の悲しそうな顔が容易に想像でき、言いにくかったのだ。

今通院中の心療内科の初診の時「なぜ以前の心療内科からこちらへ?」と聞かれた。〇〇先生を悲しませたくなくて、と言ったら、

「あー、そういうことなんだね。僕もずいぶんお世話になったよ、良い先生なのを知っているよ。うん、そうか、気持ちわかるなぁ」と(笑)。

本当に、好好爺と言っては失礼だが、優しいおじいちゃん先生で…、でも今の先生も優しくて、「間違っていないよ」と励ましてくれてありがたい。

今の心療内科にかかる際

実際に持っていた、スマホのメモ帳がこちら。参考までに、載せますね。(診察の件、詳しくはこちらからどうぞ↓)

複雑性PTSDという病名

今現在、特に病名は付いていない。今の自分の状況を客観的に知りたい。

母親と上手くいっておらず、揉めたまま、喧嘩別れのようになっている。ばったり街で鉢合わせる事、電話が来るかもしれない等、その場合どうしたらいいか…考えると気が滅入るし、不安になる

3月の終わりの週、兄が海外から帰ってくると、母から電話がある。目眩、動悸、手汗、今まで感じなかったパニックに近い不安感を感じた事。

以前家庭内トラブルがあり、兄と会いたくない旨を母に伝えていたが、父の80歳のお祝いを家族みんなでしたいから、いつまでも昔の事を言うのはいい加減にしてほしいと言われる

ここで初めて、動機息切れめまい、胃が浮くような足元がふわふわするような感覚に襲われる。何かわからないけれど、フワッと何かが襲ってくるイメージ。ものすごい不安感で胃が痛い

この日から頭痛薬を飲んでも頭痛が治まらない、睡眠導入剤を飲んでも、目がさめる、常に頭の中がフル稼働しているイメージ、疲れているのに眠れない

母親からのアクション、急な予定を入れられる事、断るが結果的に同意せざるを得ない態度に出る時、動悸のような症状がでる

老後の事や相続についての話。母親からの愚痴、も同様に症状が出る

自分が精神疾患なのかをまずは知りたい

突然くる不安感やモヤモヤが気になってる時に、家族に当たることがあり、それが自分自身すごく嫌だ。母だけでなく、自分も、感情のアップタウンがあるんだ、と気がつきました。

ワッと襲ってくる不安感の無い、感情で家族に当たらない穏やかな生活がしたい

昼間働いている時、眠くならない薬があるなら処方してもらいたい。薬で楽になるなら薬に対する抵抗感は無い

どうやってこの感覚と付き合って行くのが良いのかを知りたい

このメモを読んでもらい、問診を行った。

診断結果は悪性腹膜中皮腫による不安ではなく、長期にわたる家族からの虐待による「複雑性PTSD」という病名だった。

病名がわかりすっきりした。よく毒親が言っていた。心の病は「怠け病」そんな事くらいを気に病んでいたら、社会で通用しない等の言葉を、払い除けていいんだ。

約半世紀「虐待」に耐え

毒親の望む通り、年頃に結婚し、実家の近くに住み、孫を二人産み、頻繁に顔を見せに寄り、自分の希望より、毒親の希望をなにより優先して尽くしてきた

ある年、がんになった。私が亡き後、孫の面倒は「養子」が条件と言われ、まだ母親の代わりが必要な年齢だと思い、そこでも毒親に従い、自分の望みは告げなかった。

しかし、その間にも、

私の「どす黒い感情」のバケツは一滴一滴と溜まり続けていたのだ。溢れた一滴が、母からの、兄の帰国を告げた電話。

もう、私の心だけでは、受け止めきれなくなった、「一滴」。それでも私は、睡眠導入剤があるから大丈夫、と思おうとした。

しかし、本能が「いつもと異なる」

と発信するかのように、おでこに埋め込まれた機械が、フル稼働する感覚があり、機械が止まらず、眠れないのだ。

だから「病名」がついて、

むしろ安心した。私が「我がまま」なのではなく、耐え続けてきて、限界がきた証だとわかったのだから。

「原因」がわかれば、あとは論理的に考えて、病気の回復に「邪魔」なものは、排除すればいい。

それが、たまたま「親・兄弟」という「人」

だっただけの話。「物」であれば、もっと簡単に整理できるけれど「人」は難しい、という違いなだけ(のはず・希望多め)。

だから、私は、毒母、毒父、毒兄、と「決別」を決めたのだ。「がん」という現実だけでも、心の整理は大変

本来、そんな心を「癒して」くれるだろう「家族」が、むしろ「奈落」へ「突き落とそう」とするのだ。

悪性腹膜中皮腫も複雑性PTSDも、

どちらの病気も、私を楽にしてはくれない。毒家族と決別できて、確かに楽になり、日々の暮らしは、穏やかなものへと変化を遂げた

しかし現実は、まだ両親が健在で側にいるのに、不安がふと募った時、ふらっと寄って「ほっこり」「まったり」両親とお茶を飲み「癒され」て「甘える」場所が、私には無い。

この現実は地味に辛くて、寂しい。

普通の家庭に生まれたかった、いい大人になっても、親に甘えたい時もある、生きて近くにいる両親はいても、私には「甘えらる両親」はいない。

いつまでも、フラッと甘えに帰れる場所を用意し続けられる「未来」の「保証」も、私は持ち合わせていない。

甘えることも、甘やかしてあげられることも、

どちらも、私は「確約すること」が出来ないのだ。

だから、心細く泣きたくなる時は、家族が寝た後にこっそりと泣く。そんな時、あぁ、お母さんがいたら、きっと弱音を吐けるんだろうな、と寂しくなる

だからこそ、自分にいつも言い聞かせている「この5年間は、なかったかもしれない5年だ」と。だから、調子に乗るな、「いざ」がきても、最期まで、「自分を一人で生き切るんだ」と。

でも、私自身の事はもういいや、

もう充分夫と子どもたちが甘やかしてくれた。

幸いなことに、私には「愛」溢れる家族と、友人、仲間、がいてくれる

それだけでいいじゃないか、欲張ってはいけない。

自分の手の届く範囲の人間を大切にできれば、私の人生満点だ

だから「生きたい」などと決して望まず、感謝と謙虚を持ち「今日」を生きよう。

by 毒親育ちmochi