フラッシュバックに耐える夜を毒母は知らない

フラッシュバックに耐える夜を毒母は知らない

複雑性PTSDに悩む日もある

フラッシュバックをやり過ごす数日を送っていた。

楽して行こう|悪性腹膜中皮腫と沼」にも書いたのだが、癌告知の苦痛の記憶なのか、それとも癌告知の毒母の台詞なのか…あ、どっちも2012年です(笑)。

手強いですね、複雑性PTSD。

とにかく、絶えず激しい不安襲い続け、抗不安薬ではとても太刀打ちできそうも無いと諦めて頓服を飲んで、なんとか感情の荒波が落ち着くまでしっぽり耐えておりました。

8年以上経っても、「心をえぐらる程傷を負った出来事」はそう簡単には消えてくれないもので、中々にしんどい数日間でしたねぇ。

母に最初に電話をしたのは私

私が罹患している悪性腹膜中皮腫の5年生存率はほぼゼロというなかなか香ばしい現実。(Ⅰ期14%、Ⅳ期0%※胸膜の数字)

桜が満開だった春の夜、がんに罹患した事を知った。雨がざんざん降り頻る中、満開の夜桜を滝の様な涙を流しながら「無」になり見つめた記憶

すがる思いで電話をした相手の第一声「私の老後が無くなったのね」という毒を含んだ言葉は、間違いなく実母からの答えであった。

一人癌の告知を受け、薄暗い廊下を進み一人PET検査の予約を入れ、広い会計のカウンターにポツンと灯った灯りの下会計を済ませ、一人病院を出たら外は大雨だった。

欲しかったのは優しさだった

心が砕けそうな程の悲しみと、どうしたら良いかわからない狼狽と、感じたことのない恐怖に襲われ続けながら、この一連の作業を終えた後

あの時の私は洗脳され共依存だったから、毒母に一番にこの一大事を伝えた。きっと優しい言葉をかけて欲しかったのだと思う。

しかし現実は残酷で傷だらけの私の心にご丁寧にその傷を上回る大きな傷をとどめに与えたのだった。

あの日、世界の全ては私以外の人たちのものへと変わり独りぼっちになったと思った

優しく包んで欲しかったのかな

だって「家族だから」、「本当に困った時助けてくれるのは親」だと言ってたから、あんな風にザクっと切り捨てられるなんて想像もしなかったから。

だから春は好きだけどちょとアップダウンがある。私にとって癌の告知と毒母の残酷な言葉と毒兄の記憶同時に思い返されるから、こればかりは仕方ない。

でも春を嫌いにはならないよ

毒母を理由に何かを嫌いになるなんて私の人生が勿体ないからね。春を嫌うくらいなら、毒母と過ごした春超えてやればいいだけだ

まぁ、感情が一周したからそう言えるのだけど(笑)。

毒親から離れて4年目

今回大きなフラッシュバックの時に思ったのは、押し潰されそうな誰か救い上げてくれないか?と助けを乞いたくなる不安感

これって毒家族と過ごしていた時は常に持っていた感情だったなって事。そして結婚してもなお、毒母の機嫌次第でいつだって不安感に苛まれた生活だった事。

不安感のサイズ?深さ?これが大きいとわかったのは、今の生活が安定しているからなのかも、と。

そして一番大きな発見は、波が過ぎれば感情は再び落ち着く、つまり家庭内に不安を呼び起こす人はいないと脳が理解できている事

これがわかっているだけでも大きく違うんだ改めて気がついた。過ぎれば、今を越えれば、耐えれば、また「普段」の安定した感情が戻ってくる自分の脳が理解しているのは大きいなぁと。

忘れたくても忘れられない強烈な記憶

4月12日、あの日私は独りで衝撃を受け止め、助けてほしいと願った相手に跳ね除けられた。そして言った張本人の毒母はきっと「覚えていない」事もわかっている。

母は忘れていても、私は忘れたくても蘇るほど強烈な記憶だ。その事実だけで十分

謝ってほしいわけでも、許すつもりがあるわけでもないからね。

血の吹き出しそうな心を持て余して、一人嵐が過ぎるのを耐えていたって、母は今も尚お花畑で過ごしている。腹は立たないけれど毒母らしくて呆れてしまうし、泣きたい気にもなってくる程残念な事実だ。

忘れられないなら、許さなくたっていいじゃん

である(笑)。

結局、毒親と私が呼ぶ毒父、毒母、そして毒兄もだが、あの人たちの事を思って心を痛める必要などない、だって許すってことは忘れるって事で、やっぱり私は忘れられないから(笑)。

絶縁し月日が過ぎるほどに、どんどん自分が解放され楽に自由に「自分を生きている実感」が増す

この気楽さを知ってしまったのだ、2度と毒家族の元へ帰ろうなんて思わない(笑)。

罪悪感も薄いよ、ぺらりだよ?

あるのは毒親のどちらかが病気や亡くなった時、もしくは親戚のお葬式、これらの時に私に連絡があるだろうなー、面倒だなー、ま、出ないけどくらいかな。

子供①の進学先だって知っているのは夫の家族のみ。それも罪悪感など微塵も感じない。

それくらい、もう両親も兄も私の心から出て行った。あるのは傷ついた記憶がフラッシュバックとして蘇る苦痛だけ。でも、これだって過去であって今じゃない。関わらなければ増えないのだ、ますます会う理由がない。

まだ心に後ろ髪を引かれるかのような不安感が鎮座していらっしゃる。あと少し、でもここまでくれば大丈夫だと知っている。今夜も私は私を甘やかそう、えらいぞ、頑張ってるね、と。

人に頼る事はしない。

だってその人は私じゃないから、心の説明をするのも面倒だし、話したところで理解は無理だからね。それは私だってそう、相手の望むように理解してあげられる自信がない

だからね、希望を言う事にしている

気持ちが落ちてるから、甘い物買ってきて。心が元気ないから美味しいご飯作って。

そう具体的に夫に伝える相手の可能な範囲で「甘やかし」をねだるのだ。その方が夫だってわかりやすくて良いだろう。

心の問題は私が一人で蹴りをつけている。だけど応援は欲しいから、応援は夫に頼んでいる(笑)。

子供には頼まない、それをしてしまったら毒親と同じく「気を使え」と言うのと同義だろうから、してはならない事

夫はいい、私たちはパートナーだから

私が元気のない時、夫が元気のない時、支え合って応援しあえる相手だから一緒にいるんだ

察しろ、は甘えでしかない

毒母で嫌というほど学んだよ?わかるわけがない、だって私は私であって母ではないのだから。して欲しいことがあるのなら具体的に伝えればいい、それをしないで勝手に不機嫌になったところで、私はエスパーじゃないからできない

不快を快適にする事をちゃんと考えたらよかったのだ

どうすれば一触即発な不安含みの家庭変えることできるのだろう?どうしたらギズギズせずに団欒が持てるだろう?と。

それを考えず「全て子供のせい」にしてきたツケが今なんじゃないだろうか。

私は両親のような夫婦でいたくない。

互いの毒をぶつけ合いイライラするような夫婦なんて嫌だ。一緒にいても楽しくない。

だからフラッシュバックが襲っても、一人耐える

応援パートだけ夫に任せて。

今回の不安は大きくて…覚えている方いらっしゃいますか?ワイルドブルーヨコハマの波のプール。

とんでもなく荒波で、もう何が何だかわからないガチな大波プール。自力で方向転換など全く無理な荒波が凄まじく、楽しかったんですよー、笑うしかないってくらいなすがままでして(笑)。

それ匹敵するくらいの大きなフラッシュバックでした。

やれやれですよ、まったく。

by毒親育ちmochi